2008年9月26日

No.64 自然との共生

先日、7月に設置した落ち葉を入れるコンポスト(畑の横に置いてあります)を子どもたちと一緒にのぞき込んでみました。こちらの思惑通りに葉っぱは分解が進み黒っぽくなっていて、中にはミミズやカブトムシ?の幼虫、その他様々な虫がいて、それらを見た子どもたちは大喜びです。すぐに幼虫を捕まえる子、ミミズを見て気持ち悪がる子、手は出さないけどじっと観察している子など、いろんな姿を見ることができました。

自然環境には、子どもが思わず興味を持ち思わず遊びたくなる要素が豊かにあります。自然環境が子どもに与える意味が大きいと言われるのは、このことがあるからだろうと思っています。そして、どのような自然を通した体験や遊びが子どもたちの育ちをより促すかということについては、まだまだ時間をかけて考えなければいけませんが、子どもが興味を持ち楽しみながら体験することには、それだけでも大きな意味があると考えています。

少し違った角度から自然を考えてみると、私たち人間は生き延びていくためには、人間だけが生き延びる道を選ぶのではなく、他の生き物と共に生きていく道を探していかなければいけません。そのために最近は、盛んに環境保存の必要性が言われています。でもそれは、例えば「環境を守ろう!」といったスローガンとか「ごみを捨てるな!」という対策ではどこかで限界がきてしまうような気がします。環境を守るとか、ごみを捨てないといった道徳や倫理観は、決して言われたり罰せられたりするからやるものでもなく、覚えこまされるものでもなく、そのものへの愛着とか、そのものが自分にとってどういう意味があるかという認識とか、それらと楽しく過ごした経験などから生まれてくるものだと思います。だからこそ、子どもたちにとってこの時期に自然と関わる体験はとても重要だと考えています。

私たちは自然と共生していくことを目指さなければいけません。そしてそのために何をすればいいかを考え、そして子どもたちに伝えていかなければいけません。秋は自然の変化が多く見られる季節です。この季節の体験が子どもたちの将来にもつながっていくように、丁寧に考えていきたいと思っています。

2008年9月19日

No.63 子どもは何のために力を身につけるのか②

前回は、学校で習い身につける力が生活や社会で生かされていないのではないかということを、奈良女子大の浜田教授のお話を通して書きました。これは学校だけの問題ではなく、乳幼児期の子どもに関わる私たちも丁寧に考える必要のあることだと思っています。今回はそのことについて書いてみます。

学校だけでなく、家庭でも保育所でも、子どもたちは日々いろんな知識をつけ、いろんな力を身につけています。例えば言葉を話す力が身につけば、それを使ってコミュニケーションの世界が広がり多くの人と関わりを持てるようになります。そのように身につけた力を使い、世界が広がることをうれしいと思い、また次の力を身につける意欲につながっていきます。このように膨大な力を身につけていくわけですが、何のため?ということをあらためて考えてみると、やはり生活に使うため、社会に出たときに使うためです。

子どもが育っていく発達していくということは力を身につけていくことではありますが、そのこと自体が目的ではなく「社会で自分の力を発揮しながら生きること」が目的で、そのために力を使えることが大切だということを忘れてはいけないと思います。子どもたちが社会に出たときどんな力が必要になるかを十分に考え、将来どうあるべきかを見通して子どもたちに関わっていくことを、今の時代は特に求められていると思っています。

私たちは人と関わりながら生きています。決して1人では生きていけません。人との関係を作っていくためには会話が上手になるだけではなく、他人がうれしいと感じることで自分もうれしいと感じることも大切です。また社会ではいろんな問題がいつ起きるかわかりません。決して思い通りにいくことばかりではありません。そんな状況を乗り越えていくためには、今持っている力を工夫しながら使い、何とかやりくりすることも必要になります。そうした力をつけていく体験を用意していくことは、私たちの大切な役割です。私たちはつい先を見ないで目の前のものを見ようとします。今持っている力で子どもを評価してしまいがちです。しかし、見なければいけないのはその先にあるものです。今目の前にいる子どもに対して、将来のあるべき姿を見通して、現在をよりよく生きるために援助することを、私たちはいつも考えなければいけないと思っています。

2008年9月12日

No.62 子どもは何のために力を身につけるのか①

先日、奈良女子大で発達心理学を教えておられる浜田寿美男教授のお話を聞く機会がありました。浜田さんは「学校で学ぶことは結局学校でのみ試されるものになっていて、そこでつけた力を社会や実生活で発揮するための教育になっていない」と今の教育のあり方に危機感を感じておられます。浜田さんのお話の中で印象的なものがあったので書いてみます。

14、5年前の話ですが、浜田さんの娘さんが小学5年生のとき、家庭科で卵の黄身の盛り上がり方から新鮮度を見分ける授業があり、後日その内容についてのテストがあったそうです。家庭科のテストなので生活に即したストーリーのある内容で、「花子さんは卵料理を作ろうと卵を2つ割りました。(黄身がこんもりと盛り上がっているAと、黄身がほとんど盛り上がっていないBの図があって)あなたはAとBどちらの卵を使いますか」という問題です。ほとんどの生徒は「A」と答えましたが、浜田さんの娘さん1人だけ「B」と答えて不正解となりました。浜田さんご夫婦は仕事で遅くなることが多かったので、娘さんは夕食を自分で作ったりする機会が多い生活だったため、実体験に置き換えて「古いBから使う」と答えたようです。

皆さんの答えはどうでしょうか。実際の生活では当然「古いBから使う」でしょうし、「2つ割って1つだけ使うなんて有り得ないから両方使う」など、いろいろありそうです。実際の生活では新しいAは使って古いBは使わないということは恐らくないでしょう。もちろん卵の新鮮度の見分け方は知っている方がいいと思います。ただ考えなければいけないのは、「どちらを使いますか」という問題を「どちらが新鮮ですか」とほとんどの生徒が自分で読み替えてしまっているところです。どう生活に生かすかではなく、テストとして何が正解かと考えてしまっています。『学校で習うことは生活やその後の社会で使っていくものであるはずなのに、身につけた力や知識はテストでしか生かされない状態になってしまっているのではないか』と浜田さんは心配しておられました。

この話は小学校以降の話で、テストの無い保育所時代の子どもたちには関係ないようにも思えますが、私は無関係ではないと考えています。何のために子どもたちは力を身につけるのか?このことはきちんと押さえておかなければいけないと思っています。次回はこの続きを書かせてもらいます。

2008年9月5日

No.61 子どもに伝えたい『自由』の考え方について

前回は、運動会で選ぶことを取り入れていることに少し触れました。保育所では普段の生活の中でも自分の行動を選ぶことを、日に何度も経験するようにしています。これは、自分の意思で決め、自分の意思で行動することができる力を子どもたちにつけてもらいたいという考えです。そしてこの「選ぶ」活動を繰り返す中で、「自由」ということの考え方の基礎を伝えていきたいとも思っています。

「自由」をどう解釈するか、これはとても難しいことだと思っています。「自由」という意味を辞書で調べると「勝手気ままであること」と出てきます。確かにこれも「自由」の一面かもしれませんが、子どもたちに伝えたい「自由」の考え方は少し違います。そのことについて少し書いてみようと思います。

例えばバスに乗ることを考えてみてください。バスは「どこでも自由に乗り降りができる」ことになっていますが、停留所ではないところでも乗れるのか、お金を払わなくても乗れるのかというと、そうではありません。乗るときも降りるときも停留所でなければいけないし、きちんとお金も払わなければいけません。でもそれをきちんと守ることができれば、自分の行きたいところに行くことができます。「あなたはここで乗ってあそこで降りなさい」と決められて行動するのではなく、「ここで乗ろう。ここで降りよう。」と自分の意思で決めて行動することが『自由』だと考えています。自分で行きたい場所を考え自分で降りる場所を決められるように、自分の好き勝手にするのではなく、当然他の人に迷惑をかけないように、守るべきルールを守った上での「自由な選択」ができるようになってもらいたいと思っています。

最初にも書きましたが、私たちは子どもたちに自分の意思で行動する力をつけてもらいたいと思っています。「いいこと」「悪いこと」を自分で考えられるようになったり、やりたいことを自分で選択できたり、そんな力をつけてもらいたいという考えで、保育の内容を計画しています。ただし、そういう保育を行うためには、子どもたちにどこまで選択する力が備わっているかを把握していなければいけません。そのことについては機会をみて、そして自由について違う面からも書いてみたいと思います。