2010年11月26日

No.170 いきいき発表会が終了、そしていよいよ発表会

昨日、いきいき発表会(地域の方に向けた発表会)を行いました。今までは予行練習として行っていたのですが、当日は保護者の皆さんで会場はいっぱいになり地域の方にゆっくり見てもらうことが難しいということもあって、こういう形で行うことにしたわけです。アピール不足ではあったのですが、地域の方、同じ法人のグループホームの方、園児のひいおじいさんやひいおばあさんなども来てくださり、合わせて20名くらいのお客さんだったと思います。そのお客さんたちの前で、子どもたちは様々な姿を見せてくれました。詳細については土曜日のお楽しみということで書くのは控えておきますが、感じたことを少しだけ書かせてもらいます。

体調が悪く欠席をした子がいました。その子と一緒にある役をすることになっていた子は、急遽一人でしなければいけなくなったことで不安を感じたりして、十分に力を出せないといったことが起こっても仕方がない状況でした。でもその子は「一人でも大丈夫。」と言って、見事にやり切りました。これは簡単なことのように見えて、実はすごいことだと思っています。一人ひとりが自らやろうという気持ちを持って、しかも楽しんで取り組んでいなければできないことだろうと思います。そして、みんなで作り上げようという子ども同士の人間関係もずいぶん育ってきているように感じます。発表会の取り組みが子どもたちにとって有意義なものになっていることが想像できます。でも、もちろん、全員が当日それぞれの場面で元気な姿をみせてくれるのが一番ではありますが。

そして、昨日もそうでしたが、いつもと違う雰囲気、多くの方に見られていることで、普段の様子を見てもらうことができない子もいるかもしれません。保護者のみなさんも私たちも、思う存分持っているものを発揮してほしいという思いは一緒だと思います。でも、十分に発揮できなかった子がそこで感じる気持ちも、その子自身の大事な感情です。「うまくできた」「楽しかった」という感情も大事ですが、「恥ずかしかった」「思ったようにできなくて残念だった」といった気持ちも間違いなくその子の感情で、自分を作り上げていくためには欠かせない大事なものだと考えます。発表会は、子どもの表現の成長を見てもらう場であると同時に、子どもの様々な感情を親と共有する場でもあると思っています。明日は子どもたちの姿をしっかりと見ていただき、そのとき子どもたちが感じたものを一緒に大切にしてもらいたい、そんな思いでいます。

2010年11月19日

No.169 社会を共に見る

最近、「おんぶ」という行為が子どもにとって大きな意味がある、という話を何度も聞く機会がありました。この「おんぶ」は、実は日本の特徴的な行動だったようで、江戸時代に日本にやってきたアメリカやヨーロッパの知識人は、おんぶする母親や父親、年長の兄弟を見て、おんぶの優れた効用に気づいて感激し、高く評価しています。スキンシップという面は当然ありますが、それ以外の効用について次のように記録を残しています。「日本の赤ん坊はおんぶされながら、あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買い物、料理、井戸端会議、洗濯など、身の回りで起こるあらゆることに参加する。彼らが4つか5つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間知を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ。」

おんぶと抱っこの大きな違いに、両手が自由に使えるかどうかということがあります。そのため、抱っこをしている人はできることが制限されてしまいますが、おんぶだと制限はあまりありません。ですからおんぶされた子は、おんぶしている人と同じ視点でいろんな社会を見たり触れたりすることができるというわけです。このように子どもたちが他の人がするのを見ることは、社会性の発達の中で重要な役割をしていたのではないかということが、最近発達心理学の中で重要視されてきているそうです。ちなみにこの行動を「共同注視」と言うそうですが、おんぶにそのような効果があったのであろうという江戸時代の外国人からの指摘は、とても面白いと思います。

最近は、赤ちゃんをおんぶしながら何かをするということはずいぶん減ってきているようですが、社会に触れる大事な機会と考えると、見直してみる価値はあると思います。そして、おんぶをされながら日常生活を共に見ること以外にも、社会は様々な人や役割によって成り立っていることを見る機会を多く持つことも重要なことで、見直す必要があると思っています。例えば私が子どもの頃は、畳屋さんが畳を替えに来たり、大工さんが修理をしに来たりと、家にいながらにして様々な職業の人を見ることができていました。こうしたことが今はずいぶん減ってしまったように思います。子どもたちが社会に出たときに、それぞれの持つ役割を発揮することで社会に貢献していけるようになるためにも、「わかる」「できる」は別として、私たちが見ている社会を共に見る機会をどう用意していくかということについて、もっと考えていこうと思っています。

2010年11月12日

No.168 証城寺のたぬきばやしから考えること

「証 証 証城寺 証城寺の庭は つ つ 月夜だ みんな出て 来い来い来い おいらの友だちゃ ぽんぽこ ぽんの ぽん ・・・」
これは、みなさんもよくご存じの『証城寺のたぬきばやし』です。この歌は、次の話がもとになって作られています。

「ある秋の晩の事、何者かが寺の庭で大騒ぎしている。寝ていた和尚は目を覚まし外の様子に耳を凝らしてみると、それはお囃子のようであった。不思議に思いこっそり庭を覗くと庭の真ん中では大狸が腹を叩いてポンポコと調子を取り、それを囲むように何十匹もの狸が楽しそうに唄い踊っていた。その様子を見ていた和尚もつい楽しくなってしまい、自慢の三味線を持って思わず庭に出てしまう。そんな和尚を見て狸たちは「まだ驚かないのか!?」とばかりに、さらに大きく腹鼓を鳴らす。和尚も負けじと三味線で対抗し、まるで和尚と狸の音楽合戦である。それから毎晩、和尚と狸たちは唄い踊っていたのだが4日目の晩、狸たちが一向に現れないので和尚が不思議に思っていると翌朝、庭には調子を取っていた大狸が腹を破って死んでいた。不憫に思った和尚はその大狸を懇ろに弔ってやった。」という話です。

発表会まであと2週間となりました。発表会の取り組みを見ていて、ふとこの話を思い出すことがあります。楽器演奏でも、歌でも、踊りでも、とても楽しいものです。でも、楽しいものでも競争となると違ってきます。確かに競争することで、がんばる気持ちとかよいものにする意欲が湧くことがあります。それを否定はしません。でも競争は、結果的に周りが見えなくなってしまいます。この狸のように、体の調子が悪くなっていたり、心が壊れ始めていたりしていることに気づきにくくなります。そのことを楽しんだり、向上することの喜びから、ただ勝つことに心を奪われてしまうからです。

私は「発表会を通して何を子どもたちに伝えたいのか」と聞かれたら、「協力することの大切さ」とか「個々の違いを認めて強みを生かすことの大切さ」などと答えると思います。そして、「それが後回しになってしまうと、勝つこと、つまり、周りからの見た目を優先してしまうと、大切なものを失ってしまうと思う」とつけ加えるでしょうね。27日の発表会は、子どもが主体的に楽しんで取り組む行事です。どんな姿を見せてくれるか、楽しみにしていてください。

2010年11月5日

No.167 三瓶での自然観察会

4日(木)は、ぞう組さんとさくら保育所の年長児との交流があり、三瓶山へ行ってきました。とてもいい天気で、サヒメル周辺の北の原の自然と十分に触れ合ってきました。その内容は、まず始めにサヒメルのスタッフに連れられての自然観察、その後は「ススキの迷路」を楽しむというコースです。いろいろと楽しい体験ができたわけですが、自然観察が終わった後にサヒメルのスタッフとの会話もとても楽しかったので、ここで書いてみます。

私「この自然観察の進め方にはマニュアルのようなものがあるんですか?」

スタッフ「マニュアルやプログラムは特にありません。あるとしたら『自然に触れることを楽しむ』ということくらいで、子どもたちが興味をもつものがあれば、それを積極的に取り上げていくだけです。よく自然観察会というと、植物の名前を一つ一つ教えたりするものがありますが、あれをやっても終わったら忘れてしまっているということがほとんどなんです。知識を与えようとするのではなく、子どもたちが自然に対して興味を持てるように、まずは子どもの好奇心を引き出すことを大事にしています。」

私「今日は3チームに分かれて、それぞれのチームにスタッフの方がついてくれました。様子を見ていて『おや?』と思ったんですが、どのチームもコースは違うし、やっていることも違っていました。それには何か意味があるんですか?」

スタッフ「スタッフにはそれぞれ得意分野があって、それを生かした自然観察を行おうと思ったら、やることはバラバラになってしまう。ただそれだけのことです。その方が自分たちも楽しく自然を伝えられますから。」

まずは子どもの好奇心を引き出そうとしていること。みんなが同じことをするのではなく、それぞれの得意分野を生かそうとしていること。どれもあさり保育所で大切にしていることですし、そのやり方で行われた自然観察の時間は、子どもたちが本当に生き生きと活動していました。もしこれが、単に知識を教えようとしたり、スタッフの個性が生かされない画一的なプログラムで行われていたとしたら、子どもたちにとって楽しい体験とはならなかったのではと思います。今回は素敵なスタッフのおかげもあって、子どもたちは目や鼻や耳、体全体を通して、三瓶の自然から多くのことを感じてくれたと思います。