2016年12月22日

No.475 視野を広く保って




昨日の夕方はキャンドルナイトのイベントが行われました。ぞう組さんが内容を考え、チケットを用意し、ハンドベルの演奏をしたりと、見事な姿を見せてくれたイベントでした。このイベントは今年でおそらく10年目で、少しずつ形を変えながらではありますが、ぞう組さんたちの活躍の場の1つとなっています。始めた目的は、大きなところでは「環境問題にも目を向けたい」ということ、身近なところでは「生活の中の“光”のあり方について考えるきっかけにしたい」ということもありました。2007年12月のひとりごとに次のようなことを書いています。

『人間は電気がなかった大昔、太陽の光と月や星の光の中で生活をしていました。昼間は頭の上からの太陽の光のもとで活動します。夜は家の中でろうそくであったり燭台であったりと、床に置いた明かりに照らされます。囲炉裏なども同じで、下からの光です。そんなことからも分かるように、明るさの違いと同時にどこから光を浴びるかということからも、人は1日の流れを感じていたようです。それが電気の発明によって変わってきて、基本的には常に頭の上からの光を浴びるようになりました。また照度が増したおかげで夜でも昼間の明るさの光を浴びます。そう考えると、現代の生活はどこか体にはよくない影響がある気もしてきます。だからこそ、ろうそくの明かりは見直されてもいいのかもしれません。』

とはいっても、ろうそくなどの下からの光で生活することはほぼないのが現状です。ろうそくを楽しむといっても、それだけで1時間過ごすのはかなり大変なことでしょう。それだけ環境が大きく変わり、生活も大きく変わってしまったわけですが、「ろうそくとかの下からの光も大事だよね」と言い続けることは止めないつもりです。人間本来の力とか、環境問題のこととか、一見日々の保育には関係ないようにも思われるかもしれませんが、視野を広げるからこそ見えてくることも日々の保育では大事だと考えているからです。子どもの成長も同じです。子どもの今だけを見て「早く○○ができるようにしなければ!」と考えることと、将来こんな力を発揮できるようになってほしいと視野を広げ、そこに向けて「今は△△を十分に体験してほしい」と考えることとでは、どちらが子どもの成長のために必要な考え方なのか、みなさんと意見は一致するはずです。子どもたちに十分に季節を味わってほしいとか、地域の中の保育園の位置づけは?とか、視野を広く保ちながら日々の保育のあり方を考えていくことを今後も続けていきます。少し早いですが、今回が今年最後のひとりごとです。来年もよろしくお願いします。

2016年12月16日

No.474 もちつき会の話と粒あんの話

先週のことですが、もちつき会が無事終わりました。祖父母のみなさんと一緒に取り組む形から、そこにお父さんお母さんにも参加してもらう形に変えたのが2年前。今の祖父母は餅つき経験が豊富だけど、次の祖父母(つまり今のお父さんお母さん)は経験する機会があまりなかったのではないか?だとすれば今の園児が親になったとき、餅つきの文化を伝えてくれる祖父母はかなり少なくなってしまうんじゃないか?そんなことを考え、子どもたちに餅つきの文化を伝えるだけではなく、お父さんお母さんも巻き込んでみんなで教わる場を作っていくことにしました。



嬉しいことに、技の伝承が行われている場面を今回も見ることができました。「こうやってやるんだ」と実際にやってくれるのを見て、そこで理解したことを今度は自分でやってみることで定着させようとしている様子を見ていると、子どもが上の子の姿を見て刺激を受け、実際に体験することでできることを増やしていく様子と似ていることに気づきました。子どもの成長も文化の継承も、どちらも短時間で効率的に行う方法はありません。手間もかかるし時間もかかるものです。それを個人の力だけでやっていくのはかなり大変なことなので、保育園がそこに深く関わり、多くの人を巻き込んで進めていかなければと、改めて思わされたもちつき会でした。

もちつき会とは関係ない話を少しだけ。ついたお餅は餡子、きな粉、醬油の3つの味でいただきました。餡子は前日に保育園で作ったもので、とても美味しい粒あんでした。その粒あんを食べながら、やなせたかしさんが粒あんについて話されていたことを思い出しました。アンパンマンの頭の中身が何故こしあんではなく粒あんなのか、という話です。やなせさんご自身がこしあんより粒あんが好きだったこと、粒あんの形状を脳みそに見立てていたことなども理由のようですが、別の理由もあるそうです。それは「社会にはたくさんの粒がないといけない。たくさんの人がいて、ひとつのことができる。こしあんにしてしまうと一粒一粒が残らないから。」というものです。これ、いい話ですよね。粒(個性)をすりつぶして均一にしてしまうのではなく、たくさんの粒を残した社会を目指さなければいけないと、子どもたちに伝わるかどうかは分からないけど、やなせさんはアンパンマンという漫画で表現してこられたわけです。そんな話を思い出しながら、「やっぱりいろんな粒がたくさんある方がいいよなあ」と、大好きな粒あんとお餅をいただきました。



2016年12月15日

2016年12月

11月14日(月)、15日(火)の2日間、各部署のリーダーと隠岐郡海士町へ行ってきました。海士町が町をあげて地域の魅力を作り出し、そのことによって多くの人から注目を集め、Iターン者を増やし、地域が盛り上がっている現状を実際に見て学ぶことが目的です。花の村の事業理念は『仕事を通じて地域を創造し活性化する』ことです。今の事業が継続し発展すれば何をしてもいいのではありません。私たちが介護や保育の仕事を充実させていく先に、地域の活性化をイメージしておくことが必要です。

海士町ではいろんな方のお話を聞かせてもらいました。みなさんに共通していたのは、地域の現状を“謙虚に”受け止めること、自分たちの得意なこと不得意なことを“謙虚に”認識すること、だからこそ協力し合い補い合うことが必要だと“謙虚に”受け止めることでした。私たちの活動の拠点である江津市の東部地区、少し広く見て江津市の課題は何か、自分たちの強みは何か、役割は何か、誰に力を貸して誰に助けてもらえばいいのか。何をいまさらと思われるかもしれませんが、考え続けなければいけないことです。ぜひみなさんも考えてみてください。

合歓の郷で作られている食事について、合歓の郷の調理員のNさんと話をする機会がありました。Nさんの利用者「ひとり」に対する思いはユニークです。その人の今の状態に合わせて作るのは当然のことで、どんな生活を送ってこられたかという「過去」にも目を向ける必要があると力説します。例えば、今の調理の基本は「さしすせそ」(砂糖→塩→…の順に味付けする)ですが、昔は「さしすせそ」は関係なく調理することが多く、出来上がる味も微妙に違ってくるので、その味に慣れている方に対してはあえて「さしすせそ」を崩して調理しているとか。捨てる食材を極力少なくし使えるものは積極的に活用する「もったいない」の思いを強く持っておられるので、直接見えるわけではないけど、他の料理に使うエビのしっぽを使ってダシを取ったり、味噌汁の味噌を入れる前の汁をダシにして煮物を作ったりするとか。生きてこられた「過去」を含めての「今」と捉えることや、大事にしておられる価値観を取り入れることなど、「ひとり」に対する思いの奥の深さを気づかせてもらいました。

ボブ・ディランがノーベル文学賞の受賞式に向けて送ったメッセージを読みました。

これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問した時は一度もありませんでした。そのような問い掛けを考えることに時間をかけ、最終的に素晴らしい答えを出していただいたスウェーデン・アカデミーに感謝します。

自分とは違う考えを認め、敬意を払う姿勢は、読んでいて心地の良いものでした。興味のある方は、ぜひ全文を探して読んでみてください。LGBTの研修でも考えさせられたことですが、多様であることを当たり前とするのは大事なことですね。

2016年12月9日

No.473 事務室での食事会が始まりました





今週は年長児を4回に分けて事務室へ招待し、一緒に昼ごはんを食べました。昨年度初めてこの食事会をやってみたところ、子どもたちがとても楽しんでくれたので、今年度は12月と2月の2回実施する計画を立てています。事務室といってもみんなよく知っている場所なのですが、それでも特別感があるんでしょう。ずーっと笑顔の1時間でした。初日の月曜日のこと。少し早く食べ終わったSくんが「園長先生、しりとりやろうよー!」と言ってきたので、他の子が食べ終わるまで2人でしりとりをして待つことにしました。そのしりとりがかなり楽しかったので、結局みんなでやることに。これまたかなりの盛り上がりで、みんなで大笑いしながら楽しみました。そして2日目以降も食べ終わったら「しりとりをしない?」と誘うことにし、同じように盛り上がりました。

しりとりを推すことにしたのは、もちろんみんながかなり楽しそうだったこともありますが、“この時期の年長児だからこそ”と考えたからでもあります。ご存じのように、しりとりはひらがなを使った言葉遊びです。ひらがなは、それ自体が物そのものを表している言葉ではなく、音を組み合わせてそのものを表す言葉です。例えば「いぬ」は「い」という音節と「ぬ」という音節が合わさっている言葉と捉える必要があります。これを音節分解といって、ひらがなを理解していく基礎となります。私たちは当たり前のように使っているひらがなですが、今からそれを使いこなせるようになっていく子どもたちは、「うさぎ」の「う」は「うさぎ」を表すためだけに使われる文字ではなく、「うま」の「う」や「うきわ」の「う」と同じ文字であることを理解する、そんな地道な過程が必要です。そうした過程がより豊かになるように、知識として教え込むのではなく遊びの中で体験してもらうのが乳幼児期の教育で、その体験を小学校以降の教育につなげていくのが保育園の役割でもあります。音節分解の遊びの代表は、文章の最初の音節が書かれている絵札を探すカルタ遊びや、相手が言った言葉の最後の音節が頭につく言葉を探すしりとり遊びです。音節を体に染み込ませるのにとてもいい遊びなので、家庭でも一緒に楽しむことをおすすめします。

次の事務室での食事会は2月です。その時は1年生の食事時間約30分を意識してもらうことをねらいとする予定です。年が明けると年長児は小学校に向けた新たな取り組みが、それ以外の子は次のクラスに向けた新たな取り組みがスタートします。次のステージに進むということは、子どもたちが成長している証拠です。嬉しいことですね。

2016年12月2日

No.472 ちょっと暗くて狭い場所




子どもたちはちょっと暗くて狭い場所が好きです。これはほとんどの方に共感してもらえることだと思いますが、みなさんも好きだった記憶はありますよね。狭い場所に留まるだけでなく、そこを通り抜けるだけの場合もあります。0,1歳児の部屋には押し入れの下にちょっと暗くて狭い場所がありますし、上の写真のような室内遊具のトンネルもあります。(この中で遊んでいる写真が撮りたくて乳児室へ行った時ちょうど中で遊んでいたんですが、私に何か訴えようとして中から出てきてしまい、集中して遊んでいる姿を撮ることはできませんでした。)



園庭の「暗くて狭い」場所と言えば、築山の下に埋めてある土管です。「懐かしい!昔はよくこの中で遊んでたよなあ」とうっかり大人が入ると服をあっという間に汚してしまうこの土管は、上の写真のようにトンネルとして使われたり、中でままごとをしていたり、友達と楽しそうに話をしている姿も見かけたりもします。子どもの遊びというと、明るくてある程度の広さがあって…といったスペースが浮かぶと思います。もちろんそんなスペースは必要ですが、反対のスペースも必要だというのが私たちの考えです。生活にはメリハリが大事なのと同じで、遊びにもおいてもメリハリは大事です。明るく広い場所で遊んだり、時には暗くて狭い場所で遊んだり。静かに没頭して遊んだり、体を思い切り動かして遊んだり。遊びの空間にもメリハリをつけることで、子どもたちの遊びは多様になっていきます。



似たようなメリハリのための場として、ロフトの2階のスペースがあります。この場所は意図的に薄暗くしてあり、またここに上がると周りからはあまり見られないような作りになっています。もちろん大人からはそこに子どもがいることは分かるのですが、子どもからするとちょっとした隠れ家のように感じる場所です。こうした場所は保育園ではあまり好まれない時期もあったようですが、意図的に作った「実は外からは見えているんだけど、そこにいると見られていないように感じる場所」は、大勢が一緒に過ごす保育園だからこそ必要です。ちょっと人の目を避けたいという思いを持つのは、大人だけではありません。望んで行くのか、本能的にそのような場所を求めるのかは分かりませんが、こうした静的な場も無くてはいけないと考えています。保育園の環境には意図があります。「この場所にはどんな意味があるの?」と思われたら、遠慮なく聞いてくださいね。