今週の水曜日に今年度最後の役員会が行われました。毎年感じることですが、あさり保育所の様々な活動をいろんな角度から支えてもらっていることをありがたく思っています。最後の役員会でも多くの貴重な意見を出してもらったわけですが、その中で特に印象深かった意見がありました。ある役員さんの「参観日などで保育所に行っても、保護者の名前や子どもたちの名前が分からない。できれば分かるようにして欲しい。」というものです。
子どもたちが豊かに成長していくためには、子ども同士の関わりはもちろんですが、いろんな立場の多くの大人が愛情をもって関わることも大切だと考えます。家族の人、友だちのお父さんやお母さん、地域の人など、いろんな人と関わったり見守られたりしながら社会の仕組みを学んでいくという面があると思います。今回の役員さんの意見もこうした考えからのものだろうと受け止めました。そんな風に考えると、保育所として保護者同士、保護者と子どもの関係作り、更に広げて地域と子どもの関係作りのための取り組みがまだまだ足りないことを反省しています。
少し話は変わりますが、3年前に個人情報保護法が施行されたとき、当初は保育所としてもずいぶんその対応に悩みました。特に法律で定めなくてもプライバシーを守ることは基本的に大事なことです。しかし、保育所や子どもたちがたくさんの保護者や地域の人に支えられている現状を考えると、どうしてもこの法律はなじまないという思いがあります。もっと広く考えて、もしも世の中がこの法律をゲンカクに守らなければいけないとすれば、現代人の心(思いやりややさしさ)は、一体全体どうなっていくのか、不安が湧き上がったのを思い出します。
今の社会で最も求められているのは"支えあい"や"守りあい"の精神、そうした関わりだと思っています。個人を尊重しながら、その精神や関わりが大切にされるような豊かな関係性を作っていくことを、あさり保育所の課題として試行錯誤していかなければと思います。今年度最後の役員会で、とても大きな、そしてやりがいのある課題をいただきました。
2008年2月29日
2008年2月22日
No.33 保育参観が終わりました
先週から始まった保育参観も昨日で終わりました。今回は個人面談の時間を設けさせてもらいましたが、日程の都合もあり十分な時間は確保できませんでした。その点が来年度の課題ではありますが、その状況の中でも意義の深い話が行われたのでは、と思っています。
面談ではいろんな話が出たようで、その中の1つに「子どもたちの乱暴な言動」についての話がありました。これは私たちにとっても大きな課題です(以前も書きました)。あさり保育所の子どもたちは「子ども集団が自分たちでやりきる力を持っているすごさ」があり、ずいぶん自主自立した子ども集団になってきていると思いますが、ではなぜ乱暴な言動が制御できないのか(もちろん制御できる子どももたくさんいます)、私たちも戸惑うことがあります。
以前このことについて、「子どもにビシッと言って、しっかり叱責しないとだめ!という世間一般に存在する育児観では、一時的に見かけの落ちつきは獲得できても、決して『育ち』に至らないことだけは確か」ということを書きました。私が思うのは、大人が子どもに厳しく叱っても、寛大に接しても、それ自体は本質的な解決(子どもが自分で『学び』自分で『育つ』こと)の決め手にならないということです。ただ、そうだとしても私たち大人は、どちらの選択であっても子どもをしっかり見つめて本気(愛情表現)で真剣に関わることが大切だと思っています。乱暴な言動の1つひとつに対して子どもとしっかり向き合うことは、自分自身と向き合うことでもあります。もしかすれば、その過程で対応の中身が変わるかもしれません。大人の態度が変化する姿も、それもまた子どもが自分自身を鍛えるためのエネルギー源になる、と思います。
今保育所ではうれしいことに、乱暴な言動を子ども同士で制御するやりとりが、年長児を中心に少しずつではありますが見られるようになってきています。こうしたやりとりが子どもたちの中で受け継がれ、それがあさり保育所の風土となってくれればと期待しています。この風土がもっと広く深く根付くよう、私たちの本気を根気強く、子どもの心の根っこの部分に伝えていきたいと思います。
面談ではいろんな話が出たようで、その中の1つに「子どもたちの乱暴な言動」についての話がありました。これは私たちにとっても大きな課題です(以前も書きました)。あさり保育所の子どもたちは「子ども集団が自分たちでやりきる力を持っているすごさ」があり、ずいぶん自主自立した子ども集団になってきていると思いますが、ではなぜ乱暴な言動が制御できないのか(もちろん制御できる子どももたくさんいます)、私たちも戸惑うことがあります。
以前このことについて、「子どもにビシッと言って、しっかり叱責しないとだめ!という世間一般に存在する育児観では、一時的に見かけの落ちつきは獲得できても、決して『育ち』に至らないことだけは確か」ということを書きました。私が思うのは、大人が子どもに厳しく叱っても、寛大に接しても、それ自体は本質的な解決(子どもが自分で『学び』自分で『育つ』こと)の決め手にならないということです。ただ、そうだとしても私たち大人は、どちらの選択であっても子どもをしっかり見つめて本気(愛情表現)で真剣に関わることが大切だと思っています。乱暴な言動の1つひとつに対して子どもとしっかり向き合うことは、自分自身と向き合うことでもあります。もしかすれば、その過程で対応の中身が変わるかもしれません。大人の態度が変化する姿も、それもまた子どもが自分自身を鍛えるためのエネルギー源になる、と思います。
今保育所ではうれしいことに、乱暴な言動を子ども同士で制御するやりとりが、年長児を中心に少しずつではありますが見られるようになってきています。こうしたやりとりが子どもたちの中で受け継がれ、それがあさり保育所の風土となってくれればと期待しています。この風土がもっと広く深く根付くよう、私たちの本気を根気強く、子どもの心の根っこの部分に伝えていきたいと思います。
2008年2月15日
No.32 話し合いの中身に感心
水曜日(13日)、K保育士がキラキラした表情で前日の子どもたちの姿を報告してくれました。心に残った内容だったのでここで書いてみます。
火曜日の夕方の自由遊びの時間のことです。これから遊びに取り入れていく「買い物ごっこ」の導入編として、まずは果物屋さんでの買い物ごっこをしてみることになりました。K保育士は果物、F保育士はお金を作り、子どもたちはどのような順番で買い物をするか、話し合いを始めました。
感心したのはここからです。まず「ぱんだ組さんから行けばいいんじゃない?」という意見が出ました。これは"小さい子への思いやり・配慮"です。しかしここでぞう組さんが、「いつも自分たちは最後だから、たまには最初に行きたい!」という意見。これはぞう組さんにしてみれば、"正当な自己主張"です。内容から考えて、この2つの意見のどちらかで決まってもおかしくないのですが、これを聞いていたきりん組のMちゃんが「じゃあ3人グループを作ったら?」と提案しました。
Mちゃんの提案はおそらく「組はバラバラの3人グループ」という意味だと思われたので、K保育士が「組がバラバラの3人グループを作るにはどうしたらいい?」と投げかける(ヒントを示す)と、子どもたちは「それでいこう!」と納得した様子で、自分たちだけで「あーでもない、こーでもない」と悩みながらも手際よくグループ分けをしました。その後はとてもスムーズで、十分に買い物ごっこを楽しんだようです。
私は今回の話し合いは質が高いと思っています。"小さい子への配慮の意見"と"ぞう組さんの正当な自己主張"といったそれぞれの立場を受け止め、その上でみんなを納得させる"第三の意見"が子どもたちから出てくるところは、子どもたちに話し合う力がついてきていることを感じます。人と関わりながら生きていくことの基礎は、こうした有意義な話し合いを重ねていくことでも育っていくと考えます。このような子どもたちの関わりを、今後も支えていきたいと思った内容でした。
火曜日の夕方の自由遊びの時間のことです。これから遊びに取り入れていく「買い物ごっこ」の導入編として、まずは果物屋さんでの買い物ごっこをしてみることになりました。K保育士は果物、F保育士はお金を作り、子どもたちはどのような順番で買い物をするか、話し合いを始めました。
感心したのはここからです。まず「ぱんだ組さんから行けばいいんじゃない?」という意見が出ました。これは"小さい子への思いやり・配慮"です。しかしここでぞう組さんが、「いつも自分たちは最後だから、たまには最初に行きたい!」という意見。これはぞう組さんにしてみれば、"正当な自己主張"です。内容から考えて、この2つの意見のどちらかで決まってもおかしくないのですが、これを聞いていたきりん組のMちゃんが「じゃあ3人グループを作ったら?」と提案しました。
Mちゃんの提案はおそらく「組はバラバラの3人グループ」という意味だと思われたので、K保育士が「組がバラバラの3人グループを作るにはどうしたらいい?」と投げかける(ヒントを示す)と、子どもたちは「それでいこう!」と納得した様子で、自分たちだけで「あーでもない、こーでもない」と悩みながらも手際よくグループ分けをしました。その後はとてもスムーズで、十分に買い物ごっこを楽しんだようです。
私は今回の話し合いは質が高いと思っています。"小さい子への配慮の意見"と"ぞう組さんの正当な自己主張"といったそれぞれの立場を受け止め、その上でみんなを納得させる"第三の意見"が子どもたちから出てくるところは、子どもたちに話し合う力がついてきていることを感じます。人と関わりながら生きていくことの基礎は、こうした有意義な話し合いを重ねていくことでも育っていくと考えます。このような子どもたちの関わりを、今後も支えていきたいと思った内容でした。
2008年2月8日
No.31 保育参観と個人面談が始まります
来週から「保育参観と個人面談」が始まります。この個人面談の目的については園便りに書きましたが、何だか難しく書いてしまった気がするので、もう一度その目的を書いてみます(余計分かりにくくなったらすみません)。
私たちは、子ども1人ひとりが確実に一歩ずつ成長していってほしいと願っています。少しでも早く!なんてことは望みません。一歩ずつが大事だと思っています。例えば食事などは、飲ませてもらう授乳から、手づかみ・スプーンやフォークの時期を経て、一人で食べられるようになっていきます。こうした発達のプロセスはほとんどの場合同じです。どこかを飛ばして先に進むことはできません。段階を踏むこと、段階の一つひとつをきちんと経験することを大切にしています。
そのために、1つ何かができるようになれば次の段階に移っていけるように導いてあげることも必要になりますが、発達の早い遅いは子どもによって様々です。「2歳になったら全員○○ができるようになる」ということは決してありません。だから子ども1人ひとりの段階を把握し(見る)、必要な援助をする(守る)ことが大切です。花の種などは「いつ蒔きなさい」「水はいつあげなさい」「いつ咲きますよ」と袋に書いてありますが、人間は生まれたときにはそんなことは何一つ書いてありません。オギャーと生まれた赤ちゃんの足の裏とかに「いつ○○をしてあげなさい」「いつ○○ができるようになります」とは書いてありません。だからこそ、1人ひとりがどのような成長段階にあるか、どんな個性を持っているかを丁寧に見ることが大切だと思っています。
子ども1人ひとりが持っている個性を知ることは、それを認めることにつながっていきます。そのためには、子どもの理解と予測がなければいけません。それが親としての愛情であり、私たち保育者としての専門性であると思っています。子どもがもっている力を引き出すために、まず、今こんなことができるようになったといった「子どもの今」を皆さんと一緒に確認したい、そんなことを個人面談の目的としています。面談の時間は充分にはとれないと思いますが、子どもたちのこれからのために、少しでも有意義な時間になればと思っています。
私たちは、子ども1人ひとりが確実に一歩ずつ成長していってほしいと願っています。少しでも早く!なんてことは望みません。一歩ずつが大事だと思っています。例えば食事などは、飲ませてもらう授乳から、手づかみ・スプーンやフォークの時期を経て、一人で食べられるようになっていきます。こうした発達のプロセスはほとんどの場合同じです。どこかを飛ばして先に進むことはできません。段階を踏むこと、段階の一つひとつをきちんと経験することを大切にしています。
そのために、1つ何かができるようになれば次の段階に移っていけるように導いてあげることも必要になりますが、発達の早い遅いは子どもによって様々です。「2歳になったら全員○○ができるようになる」ということは決してありません。だから子ども1人ひとりの段階を把握し(見る)、必要な援助をする(守る)ことが大切です。花の種などは「いつ蒔きなさい」「水はいつあげなさい」「いつ咲きますよ」と袋に書いてありますが、人間は生まれたときにはそんなことは何一つ書いてありません。オギャーと生まれた赤ちゃんの足の裏とかに「いつ○○をしてあげなさい」「いつ○○ができるようになります」とは書いてありません。だからこそ、1人ひとりがどのような成長段階にあるか、どんな個性を持っているかを丁寧に見ることが大切だと思っています。
子ども1人ひとりが持っている個性を知ることは、それを認めることにつながっていきます。そのためには、子どもの理解と予測がなければいけません。それが親としての愛情であり、私たち保育者としての専門性であると思っています。子どもがもっている力を引き出すために、まず、今こんなことができるようになったといった「子どもの今」を皆さんと一緒に確認したい、そんなことを個人面談の目的としています。面談の時間は充分にはとれないと思いますが、子どもたちのこれからのために、少しでも有意義な時間になればと思っています。
2008年2月1日
No.30 子どもの持っている力を引き出すということ
先週の話ですが、ぞう組さんと浜田でスケートをしてきました。スケートは初めての子が多く、みんな滑ることができるだろうかと正直心配でしたが、指導にあたってくれた人の話を聞き、そうした心配はなくなりました。
その指導者は次のようなことを言われました。「私は子どもたちに滑り方は教えません。子どもたちが持っている力を引き出すためにヒントを与えるだけです」「最初にスケート靴に慣れるために、スケート靴を履いた状態でしっかり歩きます。その後、転び方と起き上がり方の見本を示して、それを実際にやって体に覚えさせます。」「後はちょっとのことでもできるようになったことをしっかりほめてあげれば、それが自信になり挑戦する意欲につながり、そうしているうちに子どもたちは滑ることができるようになります。」子どもの持っている力を引き出すだけというこの指導法で、1時間後には子どもたちは全員氷の上に立ち、滑ることができるようになっていました。
素晴らしい力を持っていて、その力を見事に発揮した子どもたちの姿を見ていて感動しました。そしてこの指導法にも非常に共感できました。まず子どもたちが持っている力を信じること。これがなければ"引き出す"という考え方にはなりません。この指導者の考えを聞いたとき、「教育」という言葉の語源を思い出しました。教育=educationの語源は、ラテン語のeducoからきているといわれています。このeducoという語には、「育てる」という意味と同時に「引き出す」と言う意味も含まれています。つまり教育とは、「人間に本来備わっている能力や性質を、外部からの作用によって引き出し育て上げる」ということになるわけです。この指導者の関わりは、まさに教育だと思いました。
「何もできない、何も知らないのが子どもなのだと思うのではなく、子どもは自ら育とうとする力をたくさん秘めている存在だと考え、子どもを信じてあげること。そして、その持っている力を引き出すために、ちょっと手伝ってあげればいい。」子どもに対しての関わり方について共感できることが多くあった1日だったので、書かせてもらいました。
その指導者は次のようなことを言われました。「私は子どもたちに滑り方は教えません。子どもたちが持っている力を引き出すためにヒントを与えるだけです」「最初にスケート靴に慣れるために、スケート靴を履いた状態でしっかり歩きます。その後、転び方と起き上がり方の見本を示して、それを実際にやって体に覚えさせます。」「後はちょっとのことでもできるようになったことをしっかりほめてあげれば、それが自信になり挑戦する意欲につながり、そうしているうちに子どもたちは滑ることができるようになります。」子どもの持っている力を引き出すだけというこの指導法で、1時間後には子どもたちは全員氷の上に立ち、滑ることができるようになっていました。
素晴らしい力を持っていて、その力を見事に発揮した子どもたちの姿を見ていて感動しました。そしてこの指導法にも非常に共感できました。まず子どもたちが持っている力を信じること。これがなければ"引き出す"という考え方にはなりません。この指導者の考えを聞いたとき、「教育」という言葉の語源を思い出しました。教育=educationの語源は、ラテン語のeducoからきているといわれています。このeducoという語には、「育てる」という意味と同時に「引き出す」と言う意味も含まれています。つまり教育とは、「人間に本来備わっている能力や性質を、外部からの作用によって引き出し育て上げる」ということになるわけです。この指導者の関わりは、まさに教育だと思いました。
「何もできない、何も知らないのが子どもなのだと思うのではなく、子どもは自ら育とうとする力をたくさん秘めている存在だと考え、子どもを信じてあげること。そして、その持っている力を引き出すために、ちょっと手伝ってあげればいい。」子どもに対しての関わり方について共感できることが多くあった1日だったので、書かせてもらいました。
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