2012年8月31日

No.259  他人のために…

今週の火曜日の話です。この日は重さがなんと31kgもある、とても大きなカボチャを子どもたちに見せてあげることができました。これはくま組のKさんから前日にいただいたもので、その大きさに子どもたちは驚いていたようです。またこの日は誕生会があり、そのときのお楽しみの時間にダンススクールの方々がいろんなダンスを披露してくれました。これは今月がアメリカに焦点を当てる月ということで、「アメリカから始まったHIPHOPやブレイクダンスを子どもたちに見せてあげては…」とぞう組のOさんが提案してくれたことによって実現しました。子どもたちは食い入るようにダンスを見ていたようです。

当日私は留守をしていて直接見ることができなかったのですが、報告を聞いて、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。勝手に想像するのですが、KさんもOさんも、子どもたちは喜ぶだろうなあ、驚くだろうなあと、そんな気持ちから行ってくれたことだと思うのです。いつも言っていることですが、子どもたちを取り巻く様々な人が子どもたちのためにと行動してくれる環境は、子どもたちの育ちにとって望ましい環境だと考えています。例えば単純な言い方をすると、カボチャを育てている人やダンスをしている人がいるのを知るだけでも、世の中にはいろんな人がいて成り立っているということを感じることができます。また、例えば保育園の活動(ここでは「世界を知る」というテーマ活動)や物事の不思議さを感じることを大事にしていることなどを一緒に考えてくれて、それに合わせて不思議なものを届けてくれたり活動の提案をしてくれたりすることで、子どもたちの体験の幅はグッと広がります。

理由は他にもいろいろあるのですが、やはり一番は「子どもたちのために」と行動してもらったことですね。こんな風に他者の気持ちを想像し、他者のために行動することを、子どもたちにはできるようになってもらいたいと思っています。リチャード・ドーキンスが書いた「利己的な遺伝子」という本には、私たち人間は自分がよりよく(利己的に)生きようとすればするほど他者との共存が必要になり、他者のために何かをする行動が重要になってくるという意味のことが書かれています。みんなで社会を作って生きていく上で欠かすことのできない「他人のために何かをすることを自分の喜びとする」ような行動を、保護者のみなさんが子どもたちに示してくれているのは本当にうれしいことです。

ということで最後に一言。「いろんな提案、まだまだお待ちしてますよ〜!」




2012年8月24日

No.258 9月3日の献立の話

あさり保育園では「食」についてのこだわりがたくさんあります。本当にたくさんあるので全てを紹介するわけにはいきませんが…と省略してしまうのは簡単なのですが、やはり思いがあってこだわっていることなので、少しずつでも「食」についてお知らせしていくことにします。「食」という言葉を聞いてどんなことをイメージされるでしょうか?献立であったり、食事のとり方であったり、食事の環境であったり、様々だろうと思います。私たちはそれらを全部ひっくるめて「食」と捉えています。その中からまずは献立全体のこだわりをと思ったのですが、9月に少し変わった献立を計画しているので、そのことをまずは紹介します。

9月1日は防災の日です。そしてそれに合わせて防災週間・防災月間と、防災について考えようというのがこの時期です。これは1923年9月1日に起きた関東大震災にちなんだものですが、私たちにとっては3月11日の方が防災の意識は高まるのかもしれません。その昨年の3月11日に起きた東日本大震災をきっかけに、あさり保育園とさくら保育園の調理担当者が集まって災害時の「非常食」について改めて考えてみました。そこで出てきた案の1つが「野菜を乾燥させた保存食」です。

この保存食は非常にシンプルな案ではありますが、昔は当たり前のように行われてきたことです。保存食という意味ではなかったかもしれませんが、冷蔵・冷凍保存技術がなかった頃は取れた野菜を乾燥させることで、無駄にせずきちっと使い切っていたようです。今回は保存食ということと、たくさんとれた旬の野菜を無駄なく使うことを実際にやってみて学ぼうと、野菜を乾燥させることに挑戦しました。そして、乾燥させた高菜と常備品の小麦粉を使った献立を計画しました。

実施するのは9月3日(月)、献立は「雑穀ごはん、味噌すいとん、高菜の炒め物、漬け物」です。この献立を通して防災について、そして昔は当たり前に行われてきた食に関する工夫について、子どもたちに伝えようと思っています。

うーん、9月3日の献立のことだけで終わってしまいました。できればごはんと味噌汁の話、夏バテの話なんかにも触れたかったのですが、無理でした。やっぱり「食」は広くて深いですね。少しずつ取り上げていくことにします。

2012年8月16日

手紙が届きました

ドイツにいるSさんから手紙が届きました。
私たちスタッフ宛てのものと
あさり保育園の子どもたち宛ての2通です。
子どもたちには
来週見せてあげようと思っています。

メールとかスカイプとか、
やり取りをする手段は格段に増えて充実していますが、
やはり手紙はいいですね。
手間もかかるし届くのに時間もかかりますが、
それでも受けとったときのうれしさは格別です。
久々にそんな楽しさを感じることができました。


No.257 スコップを捕まえたAちゃん

先週の土曜日のことです。草木の状況を確認するために園庭をうろうろしていると、うさぎ組のAちゃんが虫取りアミを持ってこちらへ向かってきます。何かを捕まえたらしく、ものすごく誇らしげな表情をしていたので何を捕まえたんだろうと見てみると、なんとアミに入っていたのはスコップでした。それを「見て見て!!」といった感じで嬉しそうにアピールしてくるので、思わずその獲物?の写真を撮らせてもらいました。

今ぞう・きりん・くま組の子どもたちの間で虫取りは盛んに行われています。虫取りアミを持って畑や果樹エリアで真剣な表情で虫を追いかけている姿を毎日の様に見かけます。スコップを捕まえたAちゃんは、おそらく虫を捕まえることに興味があったわけではなく、虫取りに夢中になっているお兄ちゃんお姉ちゃんの姿を真似したんだと思います。

虫取りに限らず、子ども同士で互いの行動を真似し合うという姿は、保育園の生活の中では日常的に見られます。この真似をするという行為は、その行為を習得するという意味ももちろんあるでしょうが、それ以上にミラーニューロンという脳の大事な部分に関する活動であることに大きな意味があると思っています。このミラーニューロンは相手が体験していることをあたかも自分自身が体験しているかのように感じることのできる部分で、人間らしさを特徴づけている大事な役割を持っています。他者を模倣することもミラーニューロンの働きが大きく関わっていて、ちょっと飛躍した言い方をすると、模倣をすることでミラーニューロンはさらに刺激され、人間らしい能力、例えば他者に共感したりする力もしっかりと育まれるとも言ってもいいと思います。

当然模倣をするためには相手が必要です。その相手は身近な大人であることもありますが、子どもたちにとっては発達の近い他の子どもであったり、発達差の大きい上の子どもであったりと、多様な子どもとの関係が大切なわけです。幸いにも保育園にはいろんな子どもがいて、いろんな関わりがあります。Aちゃんの様なかわいらしい姿を見ると、子ども集団があることの良さを感じます。「学ぶ」の語源とも言われる「真似る」の大切さを感じた出来事でした。



2012年8月9日

No.256 木とのつながりを考える

以前「森の力」の著者である浜田久美子さんについて書いたことがあります。森林と関わりながら森の持っている力について広く発信しておられ、『森の幼稚園のような森での活動を多く持っている子どもはコミュニケーション能力が高くなる』ということも本の中で紹介されている、そんな方です。その浜田さんからメールをいただいたのですが、その中に「木育」という言葉が出てきました。久しぶりに聞く言葉だったのですが、今この言葉に出会ったのは何か縁があるんだろうと思い、木育について整理してみることにしました。

「木育」という言葉は、北海道が平成16年に設置した民間協働プロジェクトで提案したもので、「子どもをはじめとするすべての人びとが、木とふれあい、木に学び、木と生きる」という活動です。またこのようにも説明されています。『子どものみならず、すべての人びとにとって、木と五感でふれあうことが、自然や人とのつながりの回復に結びつくこと。手でつくり、手で使う経験を通して養われる感性や想像力が、人や自然に対する「思いやり」や「やさしさ」を持つことにつながること。こうした経験を蓄積し、知恵と技術を培うことが、自然と人が共存して生きる「持続可能な社会」を生み出す力となること。私たちは、木を子どもの頃から身近に使っていくことを通じて、人と、木や森との関わりを主体的に考えられる豊かな心を育てたいという想いを「木育(もくいく)」という言葉にこめました。』

うん、やっぱり大事なことが書かれています。木と触れ合うだけでなく、木を身近に使っていくだけでもなく、そのことを通して木や森とのつながりを考えることまでつなげていけるかが大切だということです。あさり保育園には木でできたおもちゃや遊具がそれなりにはあります。でも、使っている子どもたちが、木でできたおもちゃと森にある木とをつなげて考えることができているかどうかというと、まだ十分ではない気がします。このことはじっくりと考えていきたいことです。他者に対する思いやりは自分以外のものや人に対する想像力から生まれてきます。自分がどのように他者とつながっているのか、自分の言葉や行動がどんな風に他者とつながっていくのか、子どもたちにはそんなことをたくさん考えてもらいたいですね(もちろん大人も)。身の周りの「木」を通してどこまで想像力を働かせ、つながりを感じられるか。乳幼児期に木と触れ合う体験を大事にしたいですね。

What is Mamoru in Mimamoru?

Mamoru here means providing support to the child and promoting its development. It does not mean doing something instead of the child and keeping it at a distance from difficulties. Moreover, the adult should not intervene directly, but, while allowing the child to experience various things, the caregiver should take a step back, wait for the child’s resolution powers to be exhibited and oversee the child.

For instance, the caregiver should not remove hurdles or pick up a child who has just started walking to prevent it from toppling over or stumbling. The caregiver should ascertain the level the child can clear or the distance it can walk, while giving out a signal that he or she is there as a protector in case of a problem.

To do that, the caregiver does not need to be near the children or play with them, but should consciously keep a little distance from them and observe all of them so that he or she does not miss seeing which child to protect or the signal given by each child. Providing more than necessary support hampers the child’s capabilities to develop. However, when children want to be helped, observe the signals they give out and extend the assistance. And that is Mamoru.

Observe closely and then provide protection. If a strong relationship of trust is born through such an association, the child would realize that it is being ‘overseen’ and would start acting on its own to break away from the adult. Subsequently, the child would gradually start building relationships with other children and through these relationships, would grow in a major way by experiencing various issues. In this sense ‘being watched’ also means providing mental support.
「HOIKU」Heiji Fujimori

What is Miru in Mimamoru?

Till date, a good caregiver was considered to be one who connects with each child politely, plays with it and takes care of it painstakingly. However, would this amount to ‘watching’ the child? And is it good for the child’s development?

Before the child cries, reach out to it and resolve the problem in advance. Take the child to the toilet when it is time for the child to go there, thus allowing the child to spend time pleasantly. Does this mean ‘watching’ the child? Or is it self-contentment that I am looking after the child well? ‘Watching’ the child does not mean anticipating its desires. It means discerning its development.

‘Watching’ means to closely observe the child’s actions, ascertain its current stage development and evaluate the prospects of its development. ‘Watching’ does not mean ‘capturing the existence of an issue visually’ or ‘bringing it into view’. It means ‘observing’ and ‘judging’.

For instance, when a child emerges from the toilet, it does not mean that the caregiver should help it to put on its clothes; it means to ascertain what child can do on its own. It is the same with regard to playing and eating. Always observe closely and grasp each child’s capabilities and the development process. The basic approach is not to do what the child cannot do, but to provide precise support so as to promote the child’s development, because growth is not something that is acquired on the basis of teaching; it is acquired on the basis of self-initiated action.
「HOIKU」Heiji Fujimori

2012年8月8日

Why Mimamoru Childcare?

According to recent brain science research, an infant possesses several capabilities at birth. We human beings cannot choose the environment or capabilities we would like to be born with. Each human being is born with various capabilities so as to survive in any environment or adapt to living with any disability. According to another theory, it is more effective if these inborn capabilities are gradually curbed.

Till date, the general opinion of society at large, including the world of childcare, was that a child is like a blank canvass and childcare and education is similar to drawing various colours and lines on it. However, I am of the opinion that an infant is not a blank slate.

All living creatures have the ability to transmit their genes to their progeny. Various difficulties are encountered between the birth of a child and the time it produces offspring. However, mankind has survived because it has overcome these hurdles.

Further, according to recent research, human beings are said to be active living creatures by the time they are born. Hence, it is false to say that an infant is a passive creature who cannot do anything on its own or that it knows nothing, and that people have to do things for it. Among the capabilities that we are born with, we gradually lose those that are not necessary or other competing capabilities, while we continuously hone those capabilities that are necessary for us to survive. In this sense, we can say that childcare is also about helping a child to curb various capabilities smartly.

To be more precise, the role of a caregiver is not to draw lines on the blank canvass called a child but to assist the child in extracting the right colours to match its situation, and from the complex mix of colours and lines delete what is superfluous. The word ‘education’ in English is derived from ‘eduction’.

The approach of Mimamoru childcare is not to teach the child or give it something it cannot do, but to ‘educt’, bring out, and nurture the innate capabilities of the child. In my opinion, this is an important approach to achieve the proper shape of education.
「HOIKU」Heiji Fujimori

What is Mimamoru Childcare?

Mimamoru is a word one commonly hears or reads. It is the opposite of ‘do it for someone’ and I began to use this word in childcare when I felt the need to shift from ‘infant care which was getting closer to the model called mother’ or from ‘childcare that gave priority to the perception to teach something to children’ to ‘childcare that builds the environment for the natural development of children’.

An infant cannot suddenly start walking without first crawling. It is widely known that if there is an inadequate environment for an infant to crawl, the crawling duration is reduced and if the infant starts standing and walking earlier, there could be problems with that child’s subsequent growth. This is because, at each stage of development, every infant acquires certain elements that are useful for his or her subsequent growth. And some length of time is essential at each stage, to acquire these attributes.  Hence, the caregiver should not lend a helping hand or hold an infant from behind so that the infant is able to stand faster but build an environment such that the infant can crawl sufficiently during the period when it must crawl. This would result in the child living the present in a better manner.

The progression from crawling to holding a support and standing, standing independently, and then walking, is a natural development process. To ensure such growth, space for each of these activities has to be made available. Further, at each stage of development, the child must have the motivation to perform an activity. If the child has the desire to crawl and get or touch something, or be cradled by someone, it will crawl in that direction. The ‘attitude’ to want to crawl is born only if there is a ‘motivation’. This sequence of ‘sentiment’, ‘motivation’ and ‘attitude’ is mentioned in the Guidelines for Centre-Based Care.

The caregiver needs to arrange not just a large enough area but an environment where the infant wants to crawl. And it is vital that this environment should not merely offer what the infant can do at the present. There should be challenges for the infant to want to stand on its toes. For instance, when the infant wants to grab something, the object should be slightly above the height the infant can reach and if the infant wants to be cuddled by the caregiver, he or she should stand at some distance. In order to closely observe the development of the infant and set tasks slightly beyond its development, one of the specializations that the caregiver must have is an understanding of the process of development.

Besides, the caregiver is also one of the elements of the child’s environment. If the child shows a sign that it is seeking the involvement of an adult, the caregiver must be able to notice it and respond suitably. To do this, it is crucial that the caregiver is not too close to the child but should be ‘watching’ the child from a distance. He or she should not ‘do’ what the child wants, while at the same time, he or she should not be a mere spectator. Closely ‘observing’ each child’s process of development, the caregiver must ‘watch’ and provide suitable ‘help’.
And that is mimamoru childcare.


「HOIKU」Heiji Fujimori

2012年8月3日

No.255 あらためてテーマについて

今週の水曜日にはアメリカデーが開催され、ALT教諭をされている2名の方が来てくれました。アメリカのあいさつや歌を教えてもらったり、一緒にワイルドライスパンケーキを作って食べたり、昼ごはんも一緒にワイワイと食べることができました。保育園のことにも興味を持っておられる方だったので、少しですがアメリカと日本の乳幼児教育の現状とか課題についても話をすることができ、私も楽しい時間を過ごすことができました。偶然知り合った方たちなのですが、このようなつながりが保育園を中心に生まれていくことはなかなか楽しいことだと感じています。

あらためて保育園で設定しているテーマについて考えてみます。今年度はご存じの通り「世界を知る」ですが、その前は「自然」や「地域」もテーマとして取り上げてやってきました。このようにテーマを設定することについてはいくつか意味がありますが、その中で「視点を変えてみる」ということに最近特に注目しています。当たり前のことですが、自然をテーマにしていたときは自然について、地域をテーマにしていたときは地域について、いつも以上に深く考えることになるので、子どもたちに何かを提示するときにも今まで思いつかなかったようなことが出てきたりします。視点を変えることで、楽しさの幅が広がっていく感じです。

誰にでも得意な分野と不得意な分野があります。それぞれの得意なことを生かしていくことでみんなの不得意はカバーできる、そんな風に考えている訳ですが、得意ではないかもしれないけど、あえてみんなで1つのことに目を向けてみることもおもしろいと思っています。いつもの自分の視点から少し離れてみて、全く違う視点をもって自分の周りの日常をながめてみると、今まで体験したことのないワクワク感を味わうことができたりします。そんな体験を子どもたちと一緒にできれば楽しいだろうなあと思っています。

得意不得意はちょっと置いといて、子どもに関わる大人が幅広く興味を持つことは、子どもの興味関心を広げるためにも大事なことです。草木、星空、季節など様々な分野に興味を持てる環境をつくり、子どもたちが楽しさの幅を広げるきっかけをつくってあげたいと思います。

8月のアメリカが終われば、ロシア、中国と続きます。お楽しみに。