2017年10月20日

No.515 ごちゃ混ぜ

石川県金沢市にある「シェア金沢」の視察に行ってきました。
シェア金沢は、高齢者、大学生、病気の人、障害のある人など、誰もが分け隔てなく共に生活できる街、社会に貢献できる街で、社会福祉法人佛子園のみなさんが運営されています。

こども園と直接関係があるわけではなく、当法人の方向性を考えることが主な目的だったのですが、こども園のあるべき姿を再確認させてもらえる機会にもなりました。

ここで大切にされている考えの1つは、「全ての人には役割がある」ということ。どれだけ基本的な欲求が満たされても、それで十分なのではなく、社会や誰かのために貢献できていると実感できることが大事だと考えていますが、まさにそことつながります。そのためには社会や誰かとつながっていることが必要で、しかもそのつながりは多様である方がいい、まさにそのことが実践されている街でした。社会や他者に貢献できる人になってもらいたい、そのことを心地いいと思える人になってもらいたい、そのためにも乳児期から多様な関わりが生まれる場を日常的に設けたい、そんな思いであさりこども園の保育を作ってきているわけですが、シェア金沢のような実践は全然足りていません。仕組みづくりもまだまだこれからのところが多いのが現状です。ですが今回の視察でいろいろな実践に向けて動く刺激はしっかりともらってきました。まだまだやるべき事があると思えると、俄然やる気が出てきます。嬉しいことです。

シェア金沢での説明の最後に、作家の村上龍さんが書かれた言葉が紹介されました。印象的な内容だったので、ここでも紹介しておきます。
「共生」ではなく「ごちゃ混ぜ」。「きまじめ」ではなく「ユーモア」を。こんなことが書かれています。
Think globally, act locally. 思考は悲観的に、行動は楽天的に。行動する際に意識するようにしている言葉ですが、これらと通ずるところがある気もします。現場に近いところほど考えたいことです。

 佛子園の理念・方針は、「ごちゃ混ぜ」と表される。似たような意味でよく使われるのは「共生」だが、きまじめな印象になる。同じ街で、障がい者、高齢者、それに子どもたちが、ともに接するのは、当然のことながら簡単ではなく、「きまじめ」では限界があり、ときに何らかの反作用が起こることもある。
 必要なのは「きまじめ」ではなく、人間味溢れ、懐深い、ユーモアのようなものだと思う。それに、「やってあげる」「やってもらう」が基本となる福祉は、ともすれば「見返り」や「依存」を生じさせ、破綻することも多い。
 イタリア映画の巨匠であるF・フェリーニの往年の名画『道』に、象徴的な台詞がある。知的障がいだと思われる主人公のジェルソミーナが「自分には価値がない」と悩んでいるとき、友だちになった綱渡り芸人が、そばにあった石ころを拾って言うのだ。
「君はわかっていない。この石ころだって何かの役に立っている」
 社会的に必要とされない人など存在しないという「佛子園」の哲学は、人間としての原点であり、普遍的真実である。




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