11月の園便りで書かせてもらいましたが、「科学する心」についてここでも少し書いてみます。私は「科学する」ということと「他人の気持ちを理解する」ことはつながっていると考えています。「科学する心」とはどういうことかを考えていると、「他人の気持ちを理解する」ことと非常によく似ているなぁと感じるからです。
「科学」とは、研究者が研究室で何か難しいことをやっていることだけを指すのではなく、生き物の生態を見たり自然の変化を感じたりする中で「なぜだろう?」「どうなっているんだろう?」と考えてみることも「科学」の1つです。例えば道路でも見かけたりするカマキリ、そのカマキリの赤ちゃんはとても小さい体です。大きくなったカマキリは何でも捕まえて食べるでしょうが、赤ちゃんはあの小さな体で何を食べて大きくなっているんでしょうか?自分をカマキリの赤ちゃんに置き換えたとき、周りのものがどれだけ多く見えるんだろうかとか、自分に合った大きさの食べ物は何があるんだろうと興味が沸いてきませんか?例えば大雨で増水して流れが強くなった川の中で、魚たちはどうしているんでしょうか?抵抗するけど流されて下流までいくのか、それともどこか流れの弱い場所を探してじっとしているのか。またまた自分を魚に置き換えたとき、何時間も続く激流の中で果たして無事にいられるだろうかと不安になりませんか?
自分を「自分と違うあり方で存在している他者」へ置き換えてその立場を想像することで、それまでは自分とは無関係だった世界が自分の世界として目の前に広がってきます。虫なんて関係ない、魚なんて関係ない、もっと言えば他人のことなんか自分とは関係ないと思っていたことが、その瞬間に自分のこととして感情を大きく揺さぶられる、そんな感覚を味わうことになると思います。この「他者への想像力」は、まさに「他者の気持ちを理解する」ということに通じます。そんな風に考えていると、科学離れが進んでいることと、他人とのつながりが希薄になってきたことや、人との関わりの苦手な子が増えてきていることは、決して無関係ではないような気がしてきます。子どもが本来持っている好奇心を刺激し「科学する心」が育まれ、「他者の気持ちを思いやる心」も豊かになってほしいと思っています。そのためにも「なぜ?」と問いかける子どもの姿を大切にしたいと思います。
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