2012年11月9日

No.269 集団生活の中での『待つ』体験

今の社会を考えたとき、「うーん、もっと大事にしないといけないんじゃないかなあ」と感じていることに「待つ」ことがあります。というのも以前と比べて「待つ」機会が少なくなり、苦手になっている傾向があるように思うからです。技術がどんどん進歩し、新しいモノがたくさん生まれ、間違いなく便利になりました。そして「待つ」ことが少ない、もしくはほとんど無いことが好まれるようになったのが、今の社会の特徴かもしれないと思っています。でも、「待つ」体験を重ねて、待つことを知っておく必要もありますよね。

以前は待つ機会がたくさんありました。例えば携帯電話のない時代は、好きな人に思いを届けるために手紙を書いたりしてました(よね?)。手紙は書いてもすぐには届けられません。会って直接渡すとか、机の引き出しにそっと入れておくとか、とにかく時間がかかったものです。また電話をかけようと思っても、できることなら相手の親が電話に出ない時間がいいからその時間まで待たないといけないとか、それはもう大変でした。それが携帯電話やメールでのやり取りが普通になって様子は大きく変わりました。

便利になって「待つ」ことが少なくなり、よかったことはもちろんあります。急を要する人、例えば急病人とかが素早く連絡をとり必要な処置が受けられるようになっていることなんかは、大きなメリットだと思います。でも、全てにおいて「待たない」ことが当たり前になってしまい、「待つ」ことが例外になってしまうのはよくないと、最近特に思うわけです。何故かというと、人と人との関わりの基本は「待つ」ことだと思うからです。自分に思いや都合があるように相手にも思いや都合があります。相手の思いを尊重し「待つ」ことをしなければ、他者との関わりが成り立たない場合がほとんです。他者との関わりは「待つ」ことが基本にあると思っています。

保育園でごはんを食べるときは、みんなが揃うまで待って、みんなで「いただきます」と食べ始めます。もちろんかなり時間がかかることもありますが、それでもこの時間は待つ機会として大事にしています。「お預け」のように個人的に待つのは訓練のようになってしまいますが、そうではなく「みんなが揃うまで」といった集団生活の中での待つ体験は、社会の中で生きていくうえでとても大切な体験と考えています。周りのみんなを意識し、相手の思いを尊重できるように、便利さの中でも「待つ」ことは大事にしていきたいと思います。

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