突然ですが、あさり保育所の保育者には「子どもたちにとって意味がある!」と感じたことはどんどん実践していく、という傾向が強くあるように感じています。実際にやってみて全てが良かったものというわけではありませんが、それを繰り返すことでどんどん物事が改善されていきますし、子どもに対しての理解の幅が広がるというプラス面が多くあります。とにかく、「子どもの育ちにはどんなことが必要か」という視点を持って考えることは、特に大事にしているところです。
というわけで、また新しい試みがスタートしようとしています。 それは「感情表現パネル」といいます。どういうものかと言うと、「うれしい」「楽しい」「イライラ」「ほっといて」「悲しい」「眠たい」「調子が悪い」の7種類の気持ちを表す顔がかかれているパネルがあり、その顔の下には「うれしい」「楽しい」「イライラ」「ほっといて「悲しい」「眠たい」「調子が悪い」と書いてあります。子どもたちには、この7種類の中のどれかの感情を持ったときに、自分の名前が書かれた洗濯ばさみを自分の感情のパネルに取り付けてもらおうと思っています。
何のために「感情表現パネル」の取り組みを行うかというと、 まず自分の気持ちをきちんと見つめ、それを表そうということがあります。それによって保育者が何か対応したり、友達がどうこうしたりということが一番の目的ではなく、自分で自分のことを客観視しコントロールすることをまずは大事にしようと考えています。そうはいっても、「どうして?」と問うことや、その気持ちに共感することはあるとは思いますが。
人には様々な感情があります。それによって心が動きます。
そして、その動きに気持ちがついていかず悩むこともよくあります。でもそうした感情をコントロールできるようにならなければなりません。原因究明や問題解決よりも、まずは感情をうまくコントロールできることが重要になってきます。そのためにも、まず自分の感情に気づくことが大切です。そして、自分の感情と考えを受け入れることが大事です。この「感情表現パネル」を使って、少しでも自分の感情に正面から向き合えるようになってくれればと思います。感情の大切さについては他にも思いがありますが、今回はここまでにしておきます。ちなみに初の試みなので、まずは職員が試しにこのパネルを使用しているのですが、もし誰かが「ほっといて」のパネルに洗濯ばさみをつけていたらどう対応しようか?と、ちょっとドキドキしています。
2011年2月25日
2011年2月18日
No.181 人間は○○する動物である
今週火曜日はみんなでお鍋を囲んでの食事でした。みんないつも以上に楽しそうな表情で食べていて、他の子に取り分けてあげる子もいたりと、とてもいい雰囲気の食事の時間でした。その光景を見ていて、「人間は共食する動物である」という言葉を思い出しました。
国立民族学博物館の館長をされていた石毛さんはこのように話しています。
『人類の祖先が狩猟をするようになったことに、食物分配と、それにともなう共食がはじまったのだと思われます。狩猟が男性の仕事とされることは世界の民族に共通します。初期の人類が狩人になったとき、男性がとった獲物を独り占めにせず、肉を持続的な性関係を結んだ特定の女性と、そのあいだに生まれた子供に分配するようになった、それが家族の起源と考えられるのです。共食のさい、限りある食べ物を共食するとき、強い者が独り占めにしないように、食物を分配するルールができます。この食物分配のルールがもとになって、食事における「ふるまいかた」の規範が成立します。それが発展して食事作法となります。食物分配が食事作法の起源であると、わたしは考えています。』
食事におけるしつけと言われるルールは本当に数多くありますが、 全てはみんなで楽しく食べるところから始まります。そして、人にふるまったり、いただいたりすることも重要なことです。鍋を囲んでおこなわれたようなやりとりや、みんなで一緒に食べることは、食事の基本のようですね。 また、水曜日にはカレークッキングがあり、その活動を見ながら「 人間は火を使う動物である」「人間は料理をする動物である」という言葉も思い出しました。
人間の脳は非常に大きいのが特徴ですが、これはあごの筋肉が小さくなったために脳を納めるスペースが広くなったという説があります。それは人類が加熱を伴う調理を習得したために、咀嚼力は以前に比べて弱くてすむようになったからと考えられています。ここから考えても、人間が人間らしくあるためには、料理(特に火を使う料理)が欠かせないようです。
人間らしさが「共食」「火を使う」「料理」を促すのか、「共食」「火を使う」「料理」をすることによって人間らしさが高まるのかは分かりませんが、人間の営みに欠かせないことであるのは間違いないと思います。「共食」「火を使う」「料理」については、今年度だけでなく来年度以降も大事にしていきたい活動です。
国立民族学博物館の館長をされていた石毛さんはこのように話しています。
『人類の祖先が狩猟をするようになったことに、食物分配と、それにともなう共食がはじまったのだと思われます。狩猟が男性の仕事とされることは世界の民族に共通します。初期の人類が狩人になったとき、男性がとった獲物を独り占めにせず、肉を持続的な性関係を結んだ特定の女性と、そのあいだに生まれた子供に分配するようになった、それが家族の起源と考えられるのです。共食のさい、限りある食べ物を共食するとき、強い者が独り占めにしないように、食物を分配するルールができます。この食物分配のルールがもとになって、食事における「ふるまいかた」の規範が成立します。それが発展して食事作法となります。食物分配が食事作法の起源であると、わたしは考えています。』
食事におけるしつけと言われるルールは本当に数多くありますが、 全てはみんなで楽しく食べるところから始まります。そして、人にふるまったり、いただいたりすることも重要なことです。鍋を囲んでおこなわれたようなやりとりや、みんなで一緒に食べることは、食事の基本のようですね。 また、水曜日にはカレークッキングがあり、その活動を見ながら「 人間は火を使う動物である」「人間は料理をする動物である」という言葉も思い出しました。
人間の脳は非常に大きいのが特徴ですが、これはあごの筋肉が小さくなったために脳を納めるスペースが広くなったという説があります。それは人類が加熱を伴う調理を習得したために、咀嚼力は以前に比べて弱くてすむようになったからと考えられています。ここから考えても、人間が人間らしくあるためには、料理(特に火を使う料理)が欠かせないようです。
人間らしさが「共食」「火を使う」「料理」を促すのか、「共食」「火を使う」「料理」をすることによって人間らしさが高まるのかは分かりませんが、人間の営みに欠かせないことであるのは間違いないと思います。「共食」「火を使う」「料理」については、今年度だけでなく来年度以降も大事にしていきたい活動です。
2011年2月10日
No.180 ある保護者の感想から
保育参観が昨日で無事に終了しました。ご参加いただき、ありがとうございます。今回の保育参観後に、ある保護者から感想が届きました。その感想を読ませてもらって「こういう“気づき”ってうれしいなぁ」と感じたので、ここで一部を紹介させてもらいます。
『保育参観後の個人面談でのこと。最近上の子は午睡時の布団敷きのあと、先生に抱っこしてもらっているようです。下の子は家でも外でも「抱っこ」「おんぶ」と甘えています。上の子はどうだっただろうか…?一緒に出かけたり、遊んだりするだけではなく、抱きしめるという言葉のいらないスキンシップを忘れていた。大人でも抱きしめられると嬉しい。子どもだってうれしいにきまっている。子育てって、親が子どもを育てていくのと、子どもが親を親に育ててくれるのと一緒なんだと感じた。』
中身は様々でしょうが、 こういう気づきはおそらく多くの保護者が体験されているんじゃないでしょうか。自分の関わり方は十分だっただろうかと考えさせられることや、子どもとの関わりの中で親自身が育てられていると感じることなど、このような気づきを得る場面は子育ての過程にあらかじめ組み込まれているんじゃないかと思ったりもします。初めから完璧な子育てができる親なんていないと思うんです。だからこそ「気づくこと」とそれを「受け入れること」の地道な繰り返しの過程に丁寧に向き合うことが大切なんだと、あらためて考えさせられました。
そしてもう一つ。この感想を読んでいて、 オランダ教育研究者リヒテルズ直子さんが書かれた「うちの子の幸せ論」の中の、オランダの子育てのあるシーンを思い出します。オランダでは『小学校高学年くらいのすっかり大きくなった男の子でも、何か悲しかったりつらかったりして母親のところに寄ってくると、母親は他人が見ているのもお構いなしに、ひざに乗せてしっかり抱擁してやります。』というものです。抱きしめることで、子どもはいつでも受容され自分の存在を認めてもらえているという確信を持ち、そのことで子どもの自立は促されます。自分が自分で本当に好きだと感じられることを見つけて、そして世の中で自立して生きていける人になってもらいたいという願いは、決してオランダだけのものではなく、私たちも同じはずです。子どもに力を与える“抱きしめる”という行為、大切にしていきたいですね。
『保育参観後の個人面談でのこと。最近上の子は午睡時の布団敷きのあと、先生に抱っこしてもらっているようです。下の子は家でも外でも「抱っこ」「おんぶ」と甘えています。上の子はどうだっただろうか…?一緒に出かけたり、遊んだりするだけではなく、抱きしめるという言葉のいらないスキンシップを忘れていた。大人でも抱きしめられると嬉しい。子どもだってうれしいにきまっている。子育てって、親が子どもを育てていくのと、子どもが親を親に育ててくれるのと一緒なんだと感じた。』
中身は様々でしょうが、 こういう気づきはおそらく多くの保護者が体験されているんじゃないでしょうか。自分の関わり方は十分だっただろうかと考えさせられることや、子どもとの関わりの中で親自身が育てられていると感じることなど、このような気づきを得る場面は子育ての過程にあらかじめ組み込まれているんじゃないかと思ったりもします。初めから完璧な子育てができる親なんていないと思うんです。だからこそ「気づくこと」とそれを「受け入れること」の地道な繰り返しの過程に丁寧に向き合うことが大切なんだと、あらためて考えさせられました。
そしてもう一つ。この感想を読んでいて、 オランダ教育研究者リヒテルズ直子さんが書かれた「うちの子の幸せ論」の中の、オランダの子育てのあるシーンを思い出します。オランダでは『小学校高学年くらいのすっかり大きくなった男の子でも、何か悲しかったりつらかったりして母親のところに寄ってくると、母親は他人が見ているのもお構いなしに、ひざに乗せてしっかり抱擁してやります。』というものです。抱きしめることで、子どもはいつでも受容され自分の存在を認めてもらえているという確信を持ち、そのことで子どもの自立は促されます。自分が自分で本当に好きだと感じられることを見つけて、そして世の中で自立して生きていける人になってもらいたいという願いは、決してオランダだけのものではなく、私たちも同じはずです。子どもに力を与える“抱きしめる”という行為、大切にしていきたいですね。
2011年2月4日
No.179 比べるということ
全く個人的な思いですが、「比較する」ということについて今まで慎重(臆病?)に考え過ぎていたところがあります。例えば大流行した歌「世界に一つだけの花」なんかもオンリーワンを目指すべきで比べちゃいけないという内容です。○○さんはこうだけど△△さんはこうだ、といった会話を耳にすると「比べるのはよくないんじゃない?」なんて言ってきたように思います。そんなことをしているうちに、「比較すること=悪いこと」というイメージを自分の中で作り上げてきてしまっていました。なぜこんなことを書いているかというと、比較=悪という自分の考えに対して、ほんとにそうかなあ?と思うようになっってきたからです。自分の個性とか考え方って、同じような人と話したりすることでも「ああ、一緒だ」って感じることができるけど、より際立つのは正反対の考えの人と向き合ったときのように思います。「なんでこんなに違うんだろう?」と考えることで「自分の考え方はこうなんだ」とはっきりと認識できた経験は、おそらく多くの人がされているんじゃないでしょうか。
「人は一人ひとり違う」 という当たり前の事実も比べないとわかりません。で、比べた上で違いを知り、違うからおもしろいし、違うからこそ相手を認めるということになるのが自然なんじゃないかなあというのが、今の素直な気持ちです。要はどう比べて、それをどう評価するか、ここが一番大事なんだろうと思っています。そして、比較して明らかになった自分の姿を受け止めるためには「自己肯定感」とかが関わってきますが、今この話はやめておきます。
3月5日の「成長展」 はよくある作品展とは大きく違うところがあります。作品展はたくさんの子どもの作品を並べるので、我が子の作品を見る保護者はどうしても他の子と比べてしまい、誰かより上手とか下手とかという見方になってしまいやすいものです。仕方のないことかもしれませんが、その比べかたってどうなんだろう?と、やはり思ってしまいます。その子が一生懸命に自分の気持ちを表して描いた絵をそのままに受け入れること、私たちはこれを大事にしたいんです。こんなに成長した、こんなことができるようになったという子どもの成長を喜んでもらいたいというのが、私たちの願いです。だから「成長展」では、子どもの今の姿を他の子と比較して見せるのではなく、少し前の自分の姿と今の自分の姿を比較して見せるという形の作品展になっています。こんな風に比べて、こんな風に評価してほしい。その思いを書いてみました。
「人は一人ひとり違う」 という当たり前の事実も比べないとわかりません。で、比べた上で違いを知り、違うからおもしろいし、違うからこそ相手を認めるということになるのが自然なんじゃないかなあというのが、今の素直な気持ちです。要はどう比べて、それをどう評価するか、ここが一番大事なんだろうと思っています。そして、比較して明らかになった自分の姿を受け止めるためには「自己肯定感」とかが関わってきますが、今この話はやめておきます。
3月5日の「成長展」 はよくある作品展とは大きく違うところがあります。作品展はたくさんの子どもの作品を並べるので、我が子の作品を見る保護者はどうしても他の子と比べてしまい、誰かより上手とか下手とかという見方になってしまいやすいものです。仕方のないことかもしれませんが、その比べかたってどうなんだろう?と、やはり思ってしまいます。その子が一生懸命に自分の気持ちを表して描いた絵をそのままに受け入れること、私たちはこれを大事にしたいんです。こんなに成長した、こんなことができるようになったという子どもの成長を喜んでもらいたいというのが、私たちの願いです。だから「成長展」では、子どもの今の姿を他の子と比較して見せるのではなく、少し前の自分の姿と今の自分の姿を比較して見せるという形の作品展になっています。こんな風に比べて、こんな風に評価してほしい。その思いを書いてみました。
2011年1月28日
No.178 どういたしまして?
今週の火曜日におこなったぞう組さんの生け花教室で、こんなことがありました。全員がお花を生け終えて、指導者の和田先生が子どもたちに向かって「今日はこれで終わります。ありがとうございました。」と言われました。その場は「ありがとうございました!」と子どもたちも言って終わる、そんな流れだったのですが、ぞう組さんが返した言葉は「どういたしまして!」でした。
「ありがとう」という言葉に対して「どういたしまして」 と返すのは、もちろん言葉の使い方としては間違いではありません。でも、今回の「どういたしまして」は、その状況にふさわしい言葉ではありません。もちろんぞう組さんには『この場合は「どういたしまして」ではなく、教えてもらったお礼の意味の「ありがとう」がふさわしい』ということをK保育士が伝えてくれていますが、報告を聞きながら言葉の難しさをあらためて感じました。
「ありがとう」 はお礼を言ったり感謝の気持ちを伝えたりする言葉ですが、言われている場面とか発言している人によって、かなりややこしい内容を含んだものになったりもします。言葉は記号と似ていますが、記号ではありません。「ありがとう」という言葉には「どういたしまして」と反射的に返す、といった単純なものではありません。人は他人との関係の中で生きていて、他人に自分の気持ちや思いを伝える手段のひとつが言葉です。他人との関係の中で生きているからこそ、他人の気持ちを理解するために言葉の微妙なニュアンスのようなものを推測する必要もあるわけです。だから、どれだけ時間がかかったとしても、記号としての言葉ではなく、“人とつながるための言葉”を、多くの人との関わりの中でつかんでもらいたいと思います。難しい面もあるからこそ言葉は重要なんだということを、子どもたちには感じられるようになってほしいと思います。
最後に成長展のことを一言。 今後いろんな形で成長展についてのお知らせをしていきますが、初めてのこの行事、みなさんにうまく伝えられるでしょうか。 『成長展は、あさり保育所の園舎全体が子どもたちの作品の展示会場となっていて、自分のお子さんの作品はどれかを当ててもらうイベントです。当日は親子で参加していただき、一緒にそのクイズを楽しんでいただきます。』 少しは内容が伝わったでしょうか?やっぱり言葉って難しいです。ふぅ…。
「ありがとう」という言葉に対して「どういたしまして」 と返すのは、もちろん言葉の使い方としては間違いではありません。でも、今回の「どういたしまして」は、その状況にふさわしい言葉ではありません。もちろんぞう組さんには『この場合は「どういたしまして」ではなく、教えてもらったお礼の意味の「ありがとう」がふさわしい』ということをK保育士が伝えてくれていますが、報告を聞きながら言葉の難しさをあらためて感じました。
「ありがとう」 はお礼を言ったり感謝の気持ちを伝えたりする言葉ですが、言われている場面とか発言している人によって、かなりややこしい内容を含んだものになったりもします。言葉は記号と似ていますが、記号ではありません。「ありがとう」という言葉には「どういたしまして」と反射的に返す、といった単純なものではありません。人は他人との関係の中で生きていて、他人に自分の気持ちや思いを伝える手段のひとつが言葉です。他人との関係の中で生きているからこそ、他人の気持ちを理解するために言葉の微妙なニュアンスのようなものを推測する必要もあるわけです。だから、どれだけ時間がかかったとしても、記号としての言葉ではなく、“人とつながるための言葉”を、多くの人との関わりの中でつかんでもらいたいと思います。難しい面もあるからこそ言葉は重要なんだということを、子どもたちには感じられるようになってほしいと思います。
最後に成長展のことを一言。 今後いろんな形で成長展についてのお知らせをしていきますが、初めてのこの行事、みなさんにうまく伝えられるでしょうか。 『成長展は、あさり保育所の園舎全体が子どもたちの作品の展示会場となっていて、自分のお子さんの作品はどれかを当ててもらうイベントです。当日は親子で参加していただき、一緒にそのクイズを楽しんでいただきます。』 少しは内容が伝わったでしょうか?やっぱり言葉って難しいです。ふぅ…。
2011年1月21日
No.177 友だち100人とか、ピッカピカの1年生とか
今年の初めに「たいへんよくできなくてもいいんです」という2010年新聞広告クリエーティブコンテストの作品を紹介しました。このコンテストの2009年の作品にはこんなものもあります、「人生、何年生になっても“絆”を大切に。だいじょうぶ。友達100人なんていらないんだよ。たった一人の親友がいるだけで、“ひとりぼっち”から卒業できるはず。友情って。広さじゃなくて、きっと深さなんですね。」というものです。絆とか友達というと、みんなと仲良くなるとか多くの人とつながらないといけないと思いがちですが、人の多さではないことを再確認させられる言葉です。
私子どもの頃は入学シーズンになると、「ピッカピカの1年生」 という言葉が飛び交っていたように思います。今はどうなんでしょうか。谷川俊太郎さんらが書かれた「こんな教科書あり?」という本にはこんなことが書かれています。
『1年生を見ていると、いちばん感じているのは新しい環境への不安なんだよね。不安なところから手触りでいろいろなものを見つけたり、おにいちゃんと知り合ったりしている。学校という社会へどうかかわっていっているのかということが、もっと感覚的に出てきたほうがいいと思うの。ところがいきなりピッカピカの1年生、友達いっぱいつくろう、さあ、探検だあ、だからね。どうも実感と全然違う感じがするよね。』
入学というと明るく楽しいものをイメージしがちですが、 もちろんそれもありますが、子どもの心には新しい環境への不安があることも忘れてはいけません。そしてこれは入学に限ったことではなく、次の新しい環境へ移っていこうとしている子どもたち全てに共通することです。そんな子どもたちの気持ちをきちんと察して受け止めたうえで、新しい環境への期待感を膨らませる支えになれたらなあと、あらためて思っています。
『あした、がっこうへいくんだよ』 というオススメの絵本があります。明日入学という子が眠れなくて、ぬいぐるみにいろいろ語りかけるんですが、自分は1年生になるんだと思っているから、自分を投影したぬいぐるみを一生懸命に励ますわけです。ぞう組さんの保護者に限らず、全ての保護者に一度は読んでもらいたいなあと思う1冊です。興味のある方は声をかけて下さい。
移行とか、卒園とか、進級とか・・・、いろんなことが動き出しています。
私子どもの頃は入学シーズンになると、「ピッカピカの1年生」 という言葉が飛び交っていたように思います。今はどうなんでしょうか。谷川俊太郎さんらが書かれた「こんな教科書あり?」という本にはこんなことが書かれています。
『1年生を見ていると、いちばん感じているのは新しい環境への不安なんだよね。不安なところから手触りでいろいろなものを見つけたり、おにいちゃんと知り合ったりしている。学校という社会へどうかかわっていっているのかということが、もっと感覚的に出てきたほうがいいと思うの。ところがいきなりピッカピカの1年生、友達いっぱいつくろう、さあ、探検だあ、だからね。どうも実感と全然違う感じがするよね。』
入学というと明るく楽しいものをイメージしがちですが、 もちろんそれもありますが、子どもの心には新しい環境への不安があることも忘れてはいけません。そしてこれは入学に限ったことではなく、次の新しい環境へ移っていこうとしている子どもたち全てに共通することです。そんな子どもたちの気持ちをきちんと察して受け止めたうえで、新しい環境への期待感を膨らませる支えになれたらなあと、あらためて思っています。
『あした、がっこうへいくんだよ』 というオススメの絵本があります。明日入学という子が眠れなくて、ぬいぐるみにいろいろ語りかけるんですが、自分は1年生になるんだと思っているから、自分を投影したぬいぐるみを一生懸命に励ますわけです。ぞう組さんの保護者に限らず、全ての保護者に一度は読んでもらいたいなあと思う1冊です。興味のある方は声をかけて下さい。
移行とか、卒園とか、進級とか・・・、いろんなことが動き出しています。
2011年1月7日
No.175 たいへんよくできなくてもいいんです
2011年の最初の日にある言葉に出会いました。それは『たいへんよくできなくてもいいんです』という言葉です。2010年新聞広告クリエーティブコンテストというものがあって、そこで最優秀賞に選ばれたのが、この言葉が書かれた『元気にさせるハンコ』です。この作品を作った武重浩介さんは、こんなコメントをされています。『「たいへんよくできました」というハンコ。それが象徴するようにたった一つの答えにたどりつくことが正解だと教えられて育ってきました。でも人生において正解を求めても幸せにはなれないんですよね。そもそも正解なんてないんですから。私たち一人ひとりが身近に元気になれる要素をもっているはず。そんな身近にある幸せに気づいて元気になってほしい。そんな思いをこめて制作しました。』
この作品を見ていていろいろ考えるのですが、例えば「 よくできる」という価値観はどこにあるんでしょうか。同じように、「よい子」というのもどのような子を指すんでしょうか。もしかすると、一方的に大人の都合に当てはめて、大人にとって都合がいいというのが「よくできる」ことや「よい子」の基準になっていることが多いのかもしれません。子どもの発達を考えると、子どもは動き回ることが好きでじっとしていることがないのが特徴です。探究心を持っていろんなものを触ろうとするし、じっと人の話を聞くよりも自分からいろいろと話したがるのも特徴です。でもこれらは大人にとって困る項目だったりしますよね。
また、 いまだに子どもたちは競争社会へと出て行かざるを得ないのが現状だったりします。競争が必要ないとは思いませんが、今行われている競争は、切磋琢磨して自己を高めるのではなく、相手を打ち負かすことを目指すことが多いことは問題なのではないでしょうか。今を精一杯生きている子どもに対して私たち大人が示すべきなのは、それぞれの特性を生かす社会をつくり、社会に対して貢献し、ともに協同して生きていく社会を目指す姿勢ではないかと思います。「たいへんよくできなくてもいいんです」という言葉は、子どもたちではなく、まず私たち大人がきちんと受け止めなければいけないと思っています。
この作品を見ていていろいろ考えるのですが、例えば「 よくできる」という価値観はどこにあるんでしょうか。同じように、「よい子」というのもどのような子を指すんでしょうか。もしかすると、一方的に大人の都合に当てはめて、大人にとって都合がいいというのが「よくできる」ことや「よい子」の基準になっていることが多いのかもしれません。子どもの発達を考えると、子どもは動き回ることが好きでじっとしていることがないのが特徴です。探究心を持っていろんなものを触ろうとするし、じっと人の話を聞くよりも自分からいろいろと話したがるのも特徴です。でもこれらは大人にとって困る項目だったりしますよね。
また、 いまだに子どもたちは競争社会へと出て行かざるを得ないのが現状だったりします。競争が必要ないとは思いませんが、今行われている競争は、切磋琢磨して自己を高めるのではなく、相手を打ち負かすことを目指すことが多いことは問題なのではないでしょうか。今を精一杯生きている子どもに対して私たち大人が示すべきなのは、それぞれの特性を生かす社会をつくり、社会に対して貢献し、ともに協同して生きていく社会を目指す姿勢ではないかと思います。「たいへんよくできなくてもいいんです」という言葉は、子どもたちではなく、まず私たち大人がきちんと受け止めなければいけないと思っています。
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