2011年8月26日

No.208 園庭がまた変わっていきます

園庭の改修がまた始まりました。改修と言ってもそんなに大がかりなものではないのですが、変化させては子どもの様子を観察し、また変化させるといった感じで進んでいくと思います。春には玄関周りの改修と果樹を植えること、そして畑の改修。8月に入って築山に滑り台の設置と続きました。で、さらに園庭に様々な要素を取り入れていくための改修をしていくわけです。

園庭の改修ということについて、8月6日に行われた保護者講演会で、講師の先生がこんなことを話しておられました。「ドイツでも園庭の改修が盛んに行われているのですが、地面にしてもすべて芝とか、平らに整備されていくというのではなく、砂場とか、石ころが敷き詰めてある場所とか、敷石が敷き詰めてある場所などが園庭の中にどんどん作られています。これは何のためかというと、街の中を歩く時に子どもたちが経験するであろう地面を体験させるため、ということです。」ドイツでは、ちょっと転んだだけで大きなケガをしてしまう子どもが増えてきたことなどを受けて、幼稚園の園庭にはこのように石を敷き詰めた場所をつくるといった対策をとっているようです。

子どものケガを防ぐために、ドイツでは子どもたち自身がケガを防ぐ力をどうつけていくかを考え、環境整備をします。逆に日本では子どもたちがケガをしないようにできる限り段差をなくし、地面を柔らかいものにし、といった環境整備をすることが多いようです。困難な状況をなくすことで確かにケガはしないかもしれませんが、一歩外に出ると固いところがあったり段差があったりというのが現実です。そうした現実を前にして、それを自分自身で乗り越えるための力を園庭での活動を通してつけられるようにしたい、というのが私たちの思いです。

そんな思いも持って園庭を改修しているのですが、遊びの場は何か訓練のようになるのではなく、何度も挑戦したくなるような楽しさがなければいけません。そして、その取り組み方によって難易度が変わるような(例えば、またいで進むときと立って進むときとでは難しさが全く違う一本橋のような)遊びをもっともっと充実させていくことを考えています。今年度中に再度木を植える予定ですし、草花にもっと興味をもってもらうための少し変わった花壇を作っていく計画しています。(みなさんがくつろげる場なんかもあるといいかも…。)

2011年8月21日

公平さについて②

数学は「答えが1つしかないから美しい」なんて言われたりします。
でも世の中にあるほとんどのものが答えは無数にあるし、
割り切れないことばかりだったりですよね。

例えば公平さとかもそうじゃないでしょうか。
公平だという状況には、
必ずそれを説明する根拠があると思うのですが、
そもそも公平さって何なんでしょうね。
誰がどう見ても公平ってことがあるんでしょうか。
もしあるとしたら、まあほどほどに公平とか、
この部分は不公平だけどトータルではだいたい公平かなとか、
そんな程度だったりするんじゃないかと思うんです。

うまくまとめることは出来ないのですが、
誰から見ても納得がいく根拠に基づいた行動とか、
誰もが納得する絶対の公平さとかって、
そもそもそれを厳格に求めることにどれだけの意味があるのか?
今そんなことを考えているところです。

特に子どもの世界を考えたとき、
無駄としか思えない根拠のない行動とか、
ある面から見ると公平ではない出来事とか、
そんなことが山ほど存在しています。
全く効率的ではなく、全く公平ではない、
それが子どもの遊びの特徴だったりします。
でも、そんなことの中で活動することを
子どもたちには保障し続けたいと思うんですよね。

例えば、
何が起こるか分からない自然の中での遊びで身につく“平気さ”とか、
価値観の違う他者と関わりで身につく“寛容さ”とか、
そんなことを子どもたちが体験を通して学べるのが遊びの大事なところで、
そこで自分の中の基準を豊かなものに育てていってほしいんです。
自分の中のあらゆる基準の幅が広い人って、
本当の意味で強い人だと思います。
平気さとか寛容さとか、
そんなことも子どもたちに伝えたいなあって思ってます。

公平さについて①

ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんが
「今日のダーリン」でこんなことを書かれていました。

『今年は、ずいぶんと「公平・不公平」について考えます。
なんでも公平であるべきだ‥‥よく言われます。
不公平はよくない‥‥正しいのだと思います。
ただ、ほんとうに悩ましいのは、
原理主義的に公平を実現しようとすると、
どんどん減っていってしまうものがあるいうことです。』


同じように公平さについて考えていることがあったので、
せっかくだから書いてみようと思います。

2011年8月19日

No.207 園庭のお花や虫を見つけてみよう

3,4,5歳児の不思議ゾーンに「今咲いている園庭のお花 見つけてみようビンゴ!!」「園庭にいる虫 見つけてみようビンゴ!!」という新しい遊びが用意されています。これは、「自然に生かされる保育」という私たちの保育目標をどう具体的に活動していくか、そのことを考えているあさり保育所とさくら保育所の保育者が作成したものです。下の写真のカードを園庭へ持って出て、カードの中の虫や花を夢中で探している子をよく見かけます。

これはネイチャーゲームの一種で、日本ネイチャーゲーム協会ではこんな風に紹介しています。例えば目的は『ネイチャーゲームの目的は「自然への気づき」です。「自然への気づき」とは、五感で自然を感じ、心と体で直接自然を体験することによって、自然と自分が、一体であることに気づくことです。』とあります。

そしてネイチャーゲームをすることで『自然や環境への理解が深まり、五感によるさまざまな自然体験が得られ、自然の美しさや面白さを発見でき、他者への思いやりや生命を大切にする心が育ち、感受性が高まります。』とあります。自然と自分が一体であること、人間も自然の中の生き物だと気づくことは、「自然に生かされる」ことの基礎になります。

では、ネイチャーゲームを用意すればそれでいいのかというとそうではありません。こんな風にも書かれていました。『ネイチャーゲームでは、大人が子どもに一方的に知識を教えるよりも、大人も子どもも、ともに自然を感じ、自然から得た体験や感動をわかちあおうという姿勢を大切にしています。』これは大事なポイントだと思います。知識を与えようとするのではなく、大人も一緒になって自然の不思議さを感じるとか、大人も学ぼうとする姿勢をもってのぞむとか、そんなことが大切です。

実際、大人の私たちも園庭にどれだけの種類の草花があるのかを知っているわけではありませんでした。花とか虫に意識を集中して見ることで、初めてどれだけの自然が周りにあり、触れているかがわかってきます。「自然に生かされる」ということを深めていくために、探求心や好奇心を刺激してくれる身近な自然に対しても丁寧に関わっていこうと思います。もちろん子どもも大人も楽しむことを忘れずに、です。



2011年8月18日

子どもたちの食事について

「子どもにとって必要な食事とはどんなものなんだろう?」
このことを保育に関わり始めてからずっと考えていました。
食べ方、食べさせ方、野菜の栽培活動からクッキングなど、
そんな情報はたくさんあったのですが、
“何を食べるか”の情報が以外と少なくて、
あったとしても、まるでレストランのメニューのような内容だったりで、
これだ!というものになかなか出会えずにいたんです。

そんな悩みを抱えていたある日、保健所の方による監査がありました。
いろんなことをチェックしてもらい、最後に献立等のチェックが。
その時の担当者が言われたことに軽い衝撃を受けたことを
今でも鮮明に覚えています。

「カルシウムが少し足りないですね。
そんな時は牛乳をいろんな料理に入れてみるといいですよ。
例えば酢の物に牛乳を入れるとか…。」


牛乳を入れるとより美味しくなるとか、より食べやすくなるとか、
そんな話ならまだ分かるのですが、
カルシウムが足りないから酢の物に牛乳を…です。
こうした考えで作り上げていった食事が
果たして本来の食事のあり方なのかと
その言葉を聞いた後、何度も何度も考えました。

栄養素について考えることが無駄だとは思っていません。
でも栄養素から献立を考えることも行き過ぎると、
ちょっと極端ですが行き着く先は
『必要な栄養素を確保できるだけのサプリメントの摂取で十分』
なんてことになってしまうと思うんです。
食事ってそんなものじゃないですよね。

その時期にとれるものやその土地でとれるものを
いかに美味しく食べていくかという知恵を
私たちはたくさん受け継いできているはずです。
その時期にとれるものには
その時期に必要なものがたくさん詰まっている、
その土地でとれるものには
その土地で暮らす人にとって必要なものがたくさん詰まってる、
そんな大きな視点で食を考えることが
今は欠けてきているのかなあと思ったりもします。
そんな視点の中に子どもたちの食を考える上での大きなヒントがあると、
あらためて考えさせられたわけです。

ずいぶん前の話ですが、
思い出したので書いてみました。

2011年8月11日

No.206 スイカ割りの様子を見ていて

今日は遊戯室でスイカ割りが行われていました。まず最初はクイズです。4人の職員のうち、1人がスイカ、残りの3人はボール、風船、人形をおなかの中に隠しています。誰がスイカを持っているかを当てるゲームです。そのクイズをした後、「スイカを割る」を選択した子と「応援する」を選択した子にわかれてスイカ割りが進んでいく予定でした。

進んでいくうちにこんなことが起こりました。クイズで見事正解したのはぞう組のAくんときりん組のSちゃんの2人。その正解した2人が一番最初にスイカ割りをしたらどうかと、ぞう組のKくんが提案してくれたのです。こうした子どもからの提案が飛び出したとき、どうしても無理なことでなければ積極的に取り入れることにしています。今日もほんの少しだけ流れを変えてKくんの提案通り正解者2名から挑戦してもらうことになりました。このこと自体は特別なことではないのですが、子どもたちの提案を大切にする姿勢を示し続けることは、子どもたちにとってはとても大事なことだと考えています。

子どもたちはいつもいつも前後の流れを十分に理解して提案してくれるわけではありません。とっさの思いつきで提案することはよくあります。もしその場にそぐわないような提案だった場合は、「その考えはおもしろいね。でも今は○○だから今度やってみようか。」といった風にその提案が適当な場を示してあげることも保育者の役割だったりします。大事なのは子どもの発言に対して大人が有用性やおもしろさを感じ、すぐに反応してあげることだと思っています。

大人は子どもたちに対して「自分の考えをきちんと言える」ようになってほしいという願いを持っていると思います。それに対して子どもは自分の言葉をまだ十分に持ってはいません。自分の思いを伝えるのに適した言葉も今から少しずつ獲得していく段階です。獲得するといっても、教科書のようなものから学んでいくのではなく、大人や子ども同士の関わりの中で、他者がどんなときにどんな言葉を使っているか、自分の言葉がどう受け止められたか、そんなことを通して少しずつ言葉を獲得していきます。自分の発言が価値のあるものとして受け入れられた、そんな体験を繰り返していくことが大事なんです。提案が受け入れられていくことは、主体的に活動に取り組むためにも、言葉を学んでいくためにも、自分の価値を知るということでも、とっても大事なことです。

2011年8月8日

遊びとか、幅とか

自分の中の基準に幅があるということは大事。
先日東京から来ていただいた講師の方と話していて感じたことです。

自動車のハンドルやブレーキには“遊び”が組み込まれています。
この遊びがなくても曲がったり止まったりすることは出来るけど、
危なっかしくて安心して運転していられません。
同じように自分の中の基準に遊びがないとしたら、
一見それは合理的なように感じるかもしれないけれど
実は危なっかしい生き方になってしまう可能性が大だと思うんですよね。

「まあそのくらいいいか」とか
「だいたいこんな感じでいいんじゃないかな」とか
そうした考えって今の社会では嫌われることかもしれないけど、
行き先が間違ってなくて
いざっていうときには確実に止まることができれば
そんなにガチガチでなくてもいいと思うんです。

上手く説明できていないけど、
「遊びがある」とか「基準に幅がある」とかって
もっと大切にした方がいいんじゃないか。
特に私は。
そんなことを感じました。

2011年8月7日

じぶんのあたまでかんがえる

先日、ぼくは、
「質問するのが早すぎる人、多くない?
じぶんで考える時間とかって、どこにあるんだろう?」
と、ツイートしました。
せっかく感じられたかもしれない宝物の「違和感」を、
「それはなぜですか?」
「具体的にはどういうことですか?」
「もっとわかるように言ってください」
というふうな質問に乗せて放流してしまうと、
もったいないと思ったのでした。
じぶんで、ひとりで、じぶんのあたまで考える。
結論が出ようが出るまいが、じぶんのあたまで考える。
それをくりかえす以外に、考える力も、感じる力も、
減っていくばかりだというふうに、思うんですよねー。


以前、糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞で書かれていたことです。
これ、あさり保育所の職員トイレにも貼ってあります。
結論が出ようが出まいがじぶんのあたまで考えるって
子どもにも大人にも必要なことだと思うのですが、
もっと自分で考えたらいいのになって思う場面が
確かによくあったりします。

科学がびっくりするくらい進歩して、
ちょっとした疑問はあっという間に解決したりします。
じゃあ、それに頼っていけばいいのか?と言えば
決してそうではないと思うのです。

覚えることとか、計算することとか、ちょっとした調べ物とか。
そういうことはコンピューターの力を上手にお借りするとしても、
自分の中に沸いてきた難解な疑問とか違和感とか、
他人がどんなことを考えているんだろうとか、
そんなことは自分の頭でトコトン考え尽くすこと。
それを繰り返すことで“自分”が深まっていくんじゃないか、
そんな風に思っています。

2011年8月5日

No.205 海でも山でも探索活動

火曜日にはさくら保育所との年長児交流があり、黒松の海へ行ってきました。さくら保育所の年長児より少し早く海へ到着したため待つことになったのですが、予想通り、子どもたちはすぐに「何かおもしろいものはないか」と探索活動を始めました。カニの穴を見つけてはのぞき込んでみたり、砂浜に落ちている小枝や貝殻を拾ってみたり、とにかく休むことなく動いていました。

この行動を見ていて、先日の「もくもくの日」の後でB保育士がつぶやいていた言葉を思い出しました。

『手頃な木の枝を杖の代わりにしたり、ブンブンするのは本当にたのしい!子どもが棒を求める気持ちがわかります。 だから自分もお気に入りの枝を探して楽しくブンブンしました(周りの人にあたらないことをしっかりと確認して)。』

棒を見つけてはそれを杖代わりにして、棒自体の強度を確かめたり、棒から伝わってくる地面の感覚を楽しんだり。また、振り回したときの風を切る音を聞いたり、物を叩いて物の種類によって音が違うことを楽しんだり。子どもたちはこういうことが大好きなんですよね。

探索活動は子どもの行動の中でもとても大切な行動です。子どもは何にでも興味を持ち、その中から自分とその環境に合うベストの物を選ぶことにより、その分野についてよく知る(研究が進む)ことにつながっていきます。この探索活動を通して子どもの脳は発達していくというわけです。身の周りの物を手で触ったり、棒のような道具を扱うことを身につけたり、どの子もそんな探索活動を行っています。

こうした行動は、おそらくみなさんも子どもの頃に体験していて、どんな時代でも変わらずに続いているものです。もし成長に全く意味のない活動であれば、どの子も行って、どの時代でも行われる活動にはならないはずです。そう考えると、探索活動は子どもにとってというより、人間にとって必要な行動と受け止めた方がよさそうです。

大人からすると、次から次に興味をもってあれこれ触ったりいう行動は、時には困ったことのように見えてしまうかもしれません。でも、大切な意味のある行動と捉えてじっくり観察してみるくらいの気持ちが必要かもしれませんね。一人ひとり興味が違うため探索活動の現れ方も違ってくる、そんな子どもたちの様々な探索活動を大切にしてあげたいですね。