先日、ぼくは、
「質問するのが早すぎる人、多くない?
じぶんで考える時間とかって、どこにあるんだろう?」
と、ツイートしました。
せっかく感じられたかもしれない宝物の「違和感」を、
「それはなぜですか?」
「具体的にはどういうことですか?」
「もっとわかるように言ってください」
というふうな質問に乗せて放流してしまうと、
もったいないと思ったのでした。
じぶんで、ひとりで、じぶんのあたまで考える。
結論が出ようが出るまいが、じぶんのあたまで考える。
それをくりかえす以外に、考える力も、感じる力も、
減っていくばかりだというふうに、思うんですよねー。
以前、糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞で書かれていたことです。
これ、あさり保育所の職員トイレにも貼ってあります。
結論が出ようが出まいがじぶんのあたまで考えるって
子どもにも大人にも必要なことだと思うのですが、
もっと自分で考えたらいいのになって思う場面が
確かによくあったりします。
科学がびっくりするくらい進歩して、
ちょっとした疑問はあっという間に解決したりします。
じゃあ、それに頼っていけばいいのか?と言えば
決してそうではないと思うのです。
覚えることとか、計算することとか、ちょっとした調べ物とか。
そういうことはコンピューターの力を上手にお借りするとしても、
自分の中に沸いてきた難解な疑問とか違和感とか、
他人がどんなことを考えているんだろうとか、
そんなことは自分の頭でトコトン考え尽くすこと。
それを繰り返すことで“自分”が深まっていくんじゃないか、
そんな風に思っています。
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