2012年5月29日

「私たちは…」よりも「私は…」

8月はアメリカを取り上げるということで、
アメリカ人のJennaさんが打ち合わせに来てくれました。
とっても楽しい方で打ち合わせはかなり盛り上がったのですが、
その中でちょっと考えさせられることがありました。

アメリカのことを紹介してもらいたいとお願いしたのですが、
自分はサウスダコダ州の出身だからその地のことでいいのか、
それとも一般的なアメリカのことがいいのか、
そんなことを聞かれました。

それを聞いていて、
確かに取り上げるのはアメリカという国だけど
ある個人に実際に保育園へ来てもらっていながら
不特定多数の「私たちの国は…」と語ってもらうことに
どれだけの意味があるんだろうと思ってしまいました。
いや、意味はあると思いますよ。
でもあさり保育園でやりたいことは
外国の知識を習得する場を用意することではないんです。

8月であれば、
アメリカという国を取り上げることをきっかけにJennaさんと出会い、
そのJennaさんのそのものに触れることに意味があるはずです。
Jennaさんが育ったところやそこでの生活のこと。
食べ物のことや大事にしてきたこと。
「私たちは…」ではなく「私は…」に大事なことが詰まってると思います。

自分に置き換えてもそうですよね。
もし外国で「日本はどんなところですか?」と聞かれたとして
さてなんて答えるでしょう。
「富士山があって、寿司を食べてて、…」なんて答えるよりも
「自分の住むところには古くから伝わる神楽というものがあって…」とか
自分がずっと触れてきたことについて話をする方が
圧倒的に自分の体温は伝えやすいと思うわけです。

自分とは違う文化の中で生活しているということを
知識ではなく体温のようなもので感じることができれば、
いろんな人がいるということを実感しやすいんじゃないでしょうか。
多様性ということも知識ではなく具体的な体験が伴わないと
多分理解することはかなり難しいでしょうね。

とにかくJennaさんは楽しい方でした。素敵な方でした。
8月に子どもたちはどんなことを感じるんでしょうか。


2012年5月25日

5月24日のこと


No.245 信頼している人の表情を見る

今回は前にも書いたことのある「共視(共同注視)」について。この共視というのは同じものを見るという経験のことで、大人が赤ちゃんと同じものを見ているとその赤ちゃんは安心すると言われています。その例として、おそらく体験から知っている人は多いと思うのですが、泣いている子どもを一生懸命抱っこしても泣き止まないけど、おんぶをするとピタッと泣き止んだりします。これは同じ方向を見ているという、まさに共視の状態だからです。

今回書きたいのはさらにそれを進めた内容です。実は赤ちゃんは共同注視をすることによって、持っている素晴らしい能力を発揮するということも分かっています。例えば、赤ちゃんは生き延びていくために初めて見るモノが自分にとって安全なのか危険なのかをとっさに判断しないといけません。そのためにそのモノに触れたり、そのモノとずっと過ごしたりすることで判断していくことをします。だけどものすごいスピードで世界を広げていく赤ちゃんにとって、そんな時間の余裕はほとんどありません。ではどうするか。そんなとき赤ちゃんは素晴らしい能力の出番です。

どんな能力かというと、自分が一番信頼・信用している人、例えば親や保育者がそのモノに対して安心しているかどうかの表情を見ます。そしてその人が安心している表情を見ると、「ああ、安心していいんだ」と判断するわけです。例えば大人の例でいうと、飛行機に乗っていて揺れたとき、私たちは「この飛行機は大丈夫か?」と思いますよね。そんなときは一番信頼している客室乗務員の顔を見ます。その客室乗務員が落ち着いていたら「大丈夫なんだ」と思うようになりますし、慌てた表情をしていたらこちらも慌ててしまいます。それと同じことを赤ちゃんも行っているんです。

自分の体験が圧倒的に少ない赤ちゃんは、信頼していて体験の多い人の顔を見ることで自分の体験不足をカバーします。ということは、赤ちゃんが安心して過ごせるようにするために、まずは赤ちゃんが見ているものと同じものをちゃんと見ている必要があります。そして、そのモノがどういう性質であるか知っている必要もあるということです。赤ちゃんと向き合って…ということが注目されていましたが、それとは少し違う、一緒に同じものをみるという共視という向き合い方は大事にしていきたいですね。

百町森へ行ってきました

以前から一度は行ってみたいと思っていた
百町森』というおもちゃ屋さんへ行く機会がありました。


















すごいおもちゃ屋さんだということは知っていたのですが、
実際に見てみると想像を超える内容でほんとに驚きました。

何がすごいかというと、まずはその在庫数。
ありとあらゆるおもちゃ絵本が所狭しと並べられています。


















置いてあるおもちゃを実際に使って遊べるプレイルームもあります。


















さらに、店員さんの知識が豊富だということ。
おもちゃ屋の店員だから当然と言えば当然なのかもしれませんが、
ただ知っているだけじゃなく
一つ一つに思い入れを持っていることが伝わってきます。

こんなおもちゃ屋さんが近くにあったら楽しいでしょうね。
誰かこんなおもちゃさんを開いてくれないかなあ。
そんなことを考えながら、2時間も店内をウロウロしていました。
ほんとに楽しい時間でしたよ。
せっかくなので店主の柿田さんと一緒に写真を撮らせてもらいました。


















まあそれだけの話です。

2012年5月17日

No.244 無重力状態2

先週は「敬老精神の介護に潜む落とし穴」という記事を紹介しました。宇宙空間では無重力で筋力を使わないため、地球に帰ったときの重力に備えて筋力トレーニングをしているという話で、高齢者に対しても過度の介護を行うことが筋力を落としてしまうことにつながっている、そんな内容でした。で、これは高齢者に限ったことではなく、子どもに言えることではないかと。子どもが育つために本来経験すべきことを大人が代わりにやってあげてしまうと、大人になったとき自分自身でさえ支えられなくなってしまうということもあるのではというのが先週の話です。

上に書いた子どもの話は、少子時代の今だからこそ丁寧に考えたいことです。今までも何度も書いてきていることですが、兄弟が多くいて地域にも子どもがたくさんいた多子時代には、大人が子どもに対して十分に手をかけてあげようと思ってもできませんでした。でも少子時代の今は違います。手をかけようと思えば無制限にかけることができるのが、少子時代の大きな特徴です。「子どものため」に何かをしようと考えるのはもちろん大事なことですが、何が「子どものため」なのかをきちんと考えなければ、大人になって困ってしまうのは子どもです。そんなことを望む大人なんていないですよね。

この少子化について、少し違った視点から考えてみます。全ての生物に共通する特徴と言えば「子孫を残す」ことです。どの生物にとっても子孫を残すことはとても大きな役割であって、そのために何をすべきかという情報は遺伝子に組み込まれています。でも少子化というのは人間全体が子孫を残さないような生き方をしている状態です。生物としては異常事態なわけです。この異常事態、子孫がどんどん減っていく方向に進んでいる状態の中でどう生きていくかについては、遺伝子には組み込まれていないはずです。だからこそ、今までの育児や乳幼児教育、もっと言えば生き方を問い直す必要がある、そんな風に考えています。異常事態をいつまでも異常と言ってても何も変わっていきません。その状態の中で、子どもが確実に力をつけていくためにはどんな環境・体験が必要なのか、そんなことをみなさんと一緒に考えていける保育園でもありたいんですよね。

と、こんなことを書いていると、M副園長から「ややこしくてよくわからない」と言われてしまいました。確かにややこしいです。すみません。

クラブB&J見学

今日は夕方まで邑南町で仕事があったので、帰りにこんなところへ寄ってきました。

















ここでは毎週木曜日にクラブB&Jというものが行われています。運営者はあさり保育園へ何度も足を運んでくださっているHさん(@hatihatibunbun)。どんな思いで運営されているかはHさんのホームページブログに詳しく書かれているので、ぜひそちらをじっくりと読んでみてください。

どんな風に運営されているかはもちろん気になるところでしたが、そこで子どもたちがどんな風に活動しているか、そのことにも非常に興味があったわけです。

結論をいうと、とてもおもしろかったです。ちょっと変わったウォームアップのような遊びを終えた子どもたちは、草野球を始めました。ホームベースはここ、マウンドはここ、1塁はここ,2塁はここ…と全く適当な感じで決めていくところから始まります。一見適当に見えるんですが、試合が始まるとその塁間が絶妙な間隔だということに気づかされます。ぎりぎりアウトにできるかどうかという、ほんとに絶妙な距離でした。














また、最初は3対3の6人だったですが、途中から1人加わって4対3になりました。でもそのことに対して特に何も言いません。大人が調整するとしたら、大人が加わって4対4にしてみたり、力の差を調整してみたり、そんなことをするでしょうね。でも子どもたちは特に気にしません。でも、プレーの中で人数の多いチームは少ないチームに対して緩めのジャッジをしていたように思いますし、そのことをごくごく自然にみんなが受け入れていたように見えました。

こんな風に工夫して調整することは、問題解決であったりコミュニケーションであったり、そんな力をつけていくためにはとても大事です。人数が少ないところは透明ランナー(知ってますよね?)を登場させてカバーしたり、その都度ルールを変更して力の差を少なくしてみたり。これらは全てゲームを面白くするためなんですよね。弱者を守るとか、そんなことでやっているようには見えませんでした。いかに遊びを楽しくするかを真剣に考える中で、個々の差を認め、その上で集団としてどう楽しく活動するかを学んでいくのが子どもの自然なあり方なんだろうと思います。














それ以外にも異年齢で活動することのよさも随所に見られました。教えあったり、調整したり、見て学んでいたり…。でもそのことについて書き出すと終わらなくなってしまうので、今回はやめておきます。短い時間の見学でしたが、とにかく楽しい時間でした。また行ってみようと思っています。

そして全然関係ないですが、於保地(おおち)盆地は厳かな景色でした。

cafe、オープン!!

昨日、初めてのcafeがオープンしました。といっても小さな小さなcafeなんですけどね。当分はハーブを使った飲み物が中心になると思います。ということで、まずはハーブティーです。使ったハーブはタイム、ミント、ステビア、カモミール。


















どのハーブも最近できた『スパイラルガーデン』に植えられているものです。そこからとってきたハーブを使ってハーブティーを作ります。あとはテーブルとイスをセットするだけ、ほんとに小さなcafeです。


















今回は夕方のお迎えの時間に合わせてcafeを開きました。ハーブティーを飲んでもらった保護者からは「美味しかった!」とか「ほっこりしました〜!」とか、いろんな感想を聞かせてもらいました。しばらくはハーブが中心になるでしょうが、そのうちいろんな飲み物を用意して、保護者だけではなく地域の人も気軽に来てもらえる場にしていきたいと思っています。














子どもたちの様子も面白かったですよ。店員さんになりきった子どもたちが、迎えに来られた方を見つけると走っていって「こちらへどうぞ!」なんて言いながらcafeへ案内するわけです。保護者がいないときには自分たちがテーブルを囲んで楽しそうに話をしたりして。せっかく保育園にcafeを、と考えているわけなので、子どもたちがうまく関われるようにしていきたいですね。子どもたちを中心に保護者や地域の人の関わりを生み出すことができたら…と想像するとワクワクしてきます。

2012年5月10日

No.243 無重力状態1

少し前のことですが、国際医療福祉大学の高橋泰教授が「敬老精神の介護に潜む落とし穴」という記事を書いておられました。そこには宇宙ステーションに長期滞在をしていた野口さんが例として書かれています。野口さんは、地球に帰還したとき重力の存在する生活に備えるために毎日宇宙空間で筋力トレーニングを行っていました。人間の身体は使わないと急激に機能が低下します。特に筋肉は無重力の影響が大きく、数日使わないだけでみるみる細くなります。無重力状態では、筋肉を使わないで立つことができるため一見楽ですが、地球に帰還した時に、地球の重力により発生する自身の身体の重みを自身の筋力では支えきれなくなってしまうのです。

このような無重力状態の宇宙飛行士と同様、筋肉への負荷が大幅に減少する状況に直面し、急速に筋力が低下している人たちがいると高橋さんは指摘します。それは、過度に生活支援や介護を受けている高齢者であるというのです。日本の介護の基本は敬老精神だと言います。日本人の心情からすると、ある動作を行うのが大変になったお年寄りを見ると、ついつい何かをやってあげたくなります。たとえば自分で買い物に行けるのに、「大変そうだから」という理由で誰かが代わりに買い物に行くと、それまで下肢の筋肉にかかっていた負荷がなくなることがあります。すると、筋肉は軽度の負担にかまけて足が急速に細くなり、外出に必要な筋力を失うことになってしまうと言います。そして、このような状況が続くと、間もなくトイレへ行くのも大変になってしまうのです。そうすると、今度はトイレに行くときにも援助を行うと、さらに筋力が落ちるという悪循環に陥ってしまっているというのです。

これを読んでいて、いろいろと考えさせられました。これは高齢者に限ったことではなく、子どもにも言えることじゃないかと。子どものためにと、子どもが育つために本来経験すべきことを大人が代わりにやってあげてしまうとしたら、それは子どもを無重力状態で赤ちゃんを生活させているのと同じで、自分たちがやれることを奪ってしまうことになりますよね。そうすると失うのは筋力だけじゃありません。地球に帰ったとき、つまり子どもにとっては大人になったとき、自分自身でさえ支えられなくなってしまう、そんなことが起こっても不思議ではありません。これは少子時代の今、特に気をつけて考えなければいけないことだと思っています。この続きは来週にでも…。

2012年5月4日

遊び心、楽しさ

学びたいという意欲があれば、その学びは強いものになるとサドベリー・バレーの取り組みでも証明されています。そして、形からではなく「楽しさ」から入った取り組みは、学びを促進してくれるし定着度も高いと、私の師は教えてくれました。

そんなことで、今年度の企画担当であるBさんとSさんが第1回目として計画してくれたのは『ゲーム大会』。もちろんただのゲーム大会ではありません。使ったゲームは保育園のゲームゾーンに置いてある、子ども同士の関わりを生み出すためのボードゲームです。このゲームのルールを職員全員が正しく把握しているわけではありません。そしてそれぞれのゲームにどんな楽しさがあるのかも、全員が十分に知っているわけではありません。だったら自分たちで実際に遊びこんで、その楽しさをしっかりと味わってみようじゃないか、そういう主旨でした。そこで自分たちが感じた楽しさを子どもたちにも伝えようというねらいもあります。

ということで3つのゲームを用意し、自分のやりたいゲームを選んで3チームに分かれ、しばらくの間はゲームに没頭です。途中では歓声もあがるほど白熱した時間になりました。














そしてゲーム終了後には、チームごとに自分たちの遊んだゲームのいかに楽しいものであるかを他チームの人たちに対してプレゼンをする時間も設けられました。遊び込んだ甲斐あって、言葉のひとつひとつから「楽しかった〜!」という思いがしっかりと伝わってきました。














人と関わることがいかに大事か、その関わりによって相手との関係がどんな風に変化するか、そんなことを全員が体験できた時間でもあったと思います。こうしたことは、例えばレジュメを配って説明を加えながらみんなで勉強する、ということでも学ぶことはできると思います。でもそこに楽しさがあるかと聞かれると、答えは「う〜ん……」ですよね。楽しむことが一番の目的ではありません。楽しさから入ることで、得られる学びをより大きなものにしよう、その学びをより深く定着させよう、ということが一番の目的です。

こんな感じで今後も進めていきます。企画の2人はなかなか大変でしょうが、でも回を重ねるごとに楽しさの質も変化していくのでは…と期待も持てた、今回の学びの場でした。

2012年5月3日

好奇心から生まれる学びは強い

「世界一素敵な学校」という本があります。そこで紹介されているのはサドベリー・バレーという学校です。この学校にについて、作家の高橋源一郎さんはこのように書かれています。

この学校には、カリキュラムがない。試験がないから、採点はないし、通知表もない。学年もクラスもない。いわゆる「教室」もない。当然のことだけれど、卒業証書もない。後で詳しくいうことになるかもしれないが、「先生」も「生徒」も存在しない。あるのは、子どもたちの「完全な自由」だけだ。

この学校には、決まった「授業」はなにもない。だから、子どもたちはずっと、好きなことをする。ずっと釣りをしたり、ずっとゲームをしたり。でも、おとなたちはなにもいわない。ただじっと待つのである。ある日、9歳から12歳の子どもたち12人が、ひとりの「おとな」のところにやってきた。

「足し算、引き算、掛け算、割り算、算数ならその他なんでも教えてくれと頼んできたのだ」「本当はやる気ないんじゃないの?」「いや、本気だよ。算数をマスターしたいんだよ」。というわけで、いままで算数を習ったことのない子どもたちと「おとな」は「協定」を結ぶのである。

その「協定」の中身は、☆時間を守ること。☆約束の時間に5分でも遅れたら、その日の「授業」はなし。☆それが2回続いたら、その「授業」は永遠に中止。その「協定」を守ることを誓って、「勉強」が開始される。その集まりを、ここでは「クラス」と呼ぶのである。

さて、その結果はというと、通常6年かかる、算数の全教程が、二十四週、週2回30分ずつ、トータル24時間で終了してしまう。これがいつものペースだ。そして、子どもたちは一度も約束を破らない。彼・女たちを教えた「おとな」は、こういうのである。

「教科それ自体は、そんなに難しくないんです。では何が算数を難しく、ほとんど不可能にしているかというと、嫌で嫌で仕方ない子どもたちの頭に、無理やり教科を詰め込んでいく、あのやり方のせいです。…毎日毎日、何年もの間ずっと、少しずつハンマーでたたき込んでいけば…」




この学校の創立メンバーであるグリーンバーグ氏の教育観はこうです。

ひとびとは生来、好奇心に満ちている。その好奇心を自ら自由に追い求めることができるとき、持続する関心と究極の満足が生まれるであろう。彼・女らの、物事に対する初源の関わりが育まれ、高度な探求へと成熟する機会に恵まれたとき、彼・女らはその分野において、最も深く興味を抱き、最も強く学び、最も集中することになるだろう。

あさり保育園で大事にしていることに「好奇心」があります。好奇心を高めることで自発的な学びの欲求が生まれてくるという考えです。それをもっと大きなスケールで実践しているサドベリー・バレー校に強く興味が湧いてきました。


また、特に興味をもったのが遊びに対しての考え方です。本にはこう書かれていました。

遊びによって学んでいるもの、それは集中する能力なのです。関心を1点に集中させる力です。中途半端に終わらない、ひたむきさなのです。倦むこともなければ、急ぐこともないひたむきさ。せっかくの関心を自分から腰砕けさせない、集中の持続なのです。こうした「遊びのレッスン」は、人生のなかできっと役立つものなのです。

子どもは遊びを通して学んでいる、遊びと学びはコインの表と裏、私たちもそんな風に遊びを捉えているわけですが、その点でも思いに違いはないようです。


一度訪れてみたい場所が、また増えてしまいました。

2012年5月1日

大人が変われば

副園長のご主人がまたおもしろい本を紹介してくれました。(実はその前にも興味のあった本をプレゼントされていたのですが、訳あってそちらはまだ読んでおりません。できるだけ早く感想を届けられるようにします。すみません。)

今回は内田樹さんの『「おじさん」的思考』という本の一部です。そこにはこんなことが書かれていました。

子どもたちの社会的行動は、本質的にはすべて年長者の行動の「模倣」です。 そして、あらゆる模倣行動がそうであるように、モデルの「いちばん悪いところ」がいちばん真似しやすく誇張されやすいのです。子どもたちの社会的行動はつねに大人たちの社会的行動の「醜悪な戯画」です。

そして、こう締めくくっています。

子どもたちを変える方法は一つしかありません。 大人が変わればいいのです。まず「私」が変わること、そこからしか始まりません。「社会規範」を重んじ、「公共性に配慮し」、「ディセントにふるまい」、「利己主義を抑制する」ことを、私たち一人一人が「社会を住み良くするためのコスト」として引き受けること。遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速で合理的な方法だと私は思っています。

このことについては何も言うことはありません。全く同意見です。これを読んでいて、意味としては少し違うのですが、大人の振るまい方一つでずいぶん変わってくるという意味では同じである「社会的参照」について考えてみたくなりました。それについてはまた今度。