2014年8月11日

曖昧さ




子どもの持っている「曖昧さ」について考えています。

これは決してマイナスの意味ではなく、白でもなく黒でもない、単にグレーなものという意味です。そもそも日本はどっちともつかないグレーな文化を大切にしてきたように思います。白黒はっきりつけるのは欧米の文化が入ってきてからではないかと(根拠はないですが)。ケンカをしたとき、どちらが悪いかをはっきりさせて「ごめんなさい」を言わせるのが大人の考えるケンカのおさめ方ですが、子どもを見ていると互いに話をしている内に笑顔になって、そのうち一緒にどこかへ遊びにいってしまうという、何だかよく分からない仲直りの仕方をよく見かけます。「それでいいの?」と思ってしまいますが、おそらくそこには子どもにはわかる何か、つまり「曖昧さ」があるように思えるのです。その「曖昧さ」こそ日本の伝統的な文化の底辺にあったとしたら、また「曖昧さ」こそ子どもの世界の大事に要素であるとしたら、あらためて見直してみる必要があるかなあと。

そんなことを思いながら「曖昧さ」について考えていたら、おもしろい言葉に出会いました。子どものもつ「曖昧さ」ってこういう風にも言えるのかもしれません。河合隼雄さんが児童文学について書かれた本『「子どもの目」からの発想』の中の言葉です。この言葉についてもじっくりと考えることにします。



『現実は極めて多層であるのに、ともすると、われわれはそれを極めて単層的な構造に押しこめてしまって、それが現実そのものであると錯覚して暮らしている。大人たちは自分たちの「常識」を何ら疑うことなく、単層性の現実を唯一のものと信じている。しかし、子どもたちはもっと柔軟な心をもっている。彼らは一方では大人たちの「教育」に従おうと努力しつつ、一方ではそれをはねのけて、大人たちの知らない現実を露呈せしめるのである。』


『子どもの目は大人の目のように常識によって曇らされていないので、現実の多層性を見ぬく力をもっているのだ。そこ児童文学の存在意義がある。』

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